トランプ氏の「アメフト改名」発言とFIFA平和賞――スポーツと政治の距離をどう考えるか

米国のドナルド・トランプ大統領をめぐり、スポーツ界と政治の関係が改めて大きな議論を呼んでいます。ひとつは、サッカー・ワールドカップ(W杯)の熱気を背景にした「アメリカンフットボールの名称変更」発言、もうひとつは国際サッカー連盟(FIFA)による「FIFA平和賞」授与です。これらの動きを、日本のマルクス主義経済学者として知られる斎藤幸平さんのこれまでの議論も手がかりにしながら、「スポーツと政治の接近」という視点でやさしく整理してみます。

「フットボールの名にふさわしいのはサッカーだ」トランプ氏の問題提起

ニュースの発端となったのは、北中米で開催される2026年サッカーW杯のグループリーグ抽選会の場での、トランプ大統領の発言です。AFPなどによると、トランプ氏は、丸いボールを足で扱うサッカーこそが「真のフットボール」であり、主に手を使うアメリカンフットボールが「フットボール」を名乗るのは「筋が通らない」と述べました。

トランプ氏は次のような趣旨の発言をしています。

  • 世界の多くの国で「フットボール」といえばサッカーを指していること
  • 一方、米国では「フットボール」といえばアメリカンフットボールを意味すること
  • 「よく考えてみれば、これこそがフットボールであるというのは間違いない」として、サッカー側に名称の正当性があるという主張
  • NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)には「別の名前を考えなければならない」と語り、「考えてみると筋が通らない」と強調したこと

この発言は、米国内では「フットボール」という言葉をめぐる長年の文化的な前提を揺さぶるものでした。米国でフットボールといえば、ほぼ自動的にアメリカンフットボールを意味しますが、世界のサッカー文化から見れば、「足でボールを扱う競技こそ『フットボール』ではないか」という感覚も根強くあります。

インターネット上の反応には、トランプ氏の発言を「アメリカ人からも批判される」「トランプ支持者からも怒られるのでは」と揶揄する声も見られ、「FIFAから裏金をもらっているのでは」といった、やや極端な憶測まで飛び交いました。 それだけ、「アメフト=フットボール」という呼び方が米国社会のアイデンティティに組み込まれており、名称を変えるという話が「タブー」に近いテーマになっていることを示しています。

先住民チーム名めぐる「名称を戻せ」発言との連続性

トランプ氏とスポーツの「名前」をめぐる論争は、今回が初めてではありません。2025年には、NFLの「ワシントン・コマンダース」とMLBの「クリーブランド・ガーディアンズ」に対し、かつて差別的との批判を受けて変更された旧チーム名「ワシントン・レッドスキンズ」「クリーブランド・インディアンス」に戻すべきだと公に主張し、物議を醸しました。

このときトランプ氏は、自身のSNSで「即刻『ワシントン・レッドスキンズ』に戻すべきだ」「歴史あるクリーブランド・インディアンスも同様だ」と訴えたうえで、「偉大なインディアンの人々大勢が望んでいる。彼らの伝統と威信は組織的に奪われつつある」と述べました。

しかし、これらの旧チーム名は、いずれも先住民族に対する蔑称であるとの批判を受け、2020年前後の人種差別抗議運動の高まりのなかで名称変更が進んだという経緯があります。 球団側はすでに新名称のブランド構築を進めており、「ガーディアンズ」として4年間で新しいイメージを育ててきたと説明、再変更を明確に否定しています。

今回の「アメフトの名称変更」発言と、かつての「レッドスキンズ/インディアンスに戻せ」という主張は、一見すると方向性が逆に見えます。しかし、いずれも「スポーツの名称」をめぐる象徴政治の側面を持っており、名称を通じて文化的・政治的メッセージを発信している点では共通しています。

FIFA平和賞をめぐる賛否――「露骨にすり寄り」「政治的中立」への懸念

こうしたなかで、国際サッカー連盟(FIFA)がトランプ大統領に「FIFA平和賞」を授与したことも、大きな波紋を呼びました。読売新聞オンラインなどの報道によれば、トランプ氏はこの受賞について「人生における偉大な栄誉の一つだ」と語り、強い自負を示しました。一方で、この授与に対しては「露骨にすり寄っている」「FIFAの政治的中立を脅かした」とする批判も噴出しています。(読売の報道内容に基づく)

FIFAは従来、「政治的中立」を掲げ、競技の場での政治的メッセージ表示に厳しい姿勢を取ってきました。そのFIFAが、強い政治的立場と支持・不支持がはっきり分かれたトランプ氏に対し、平和賞を授与することは、多くの人にとって「政治との距離」を測り直さざるをえない出来事だったといえます。

背景には、2026年W杯がアメリカ、カナダ、メキシコの共催で行われることや、開催準備・インフラ整備への米政権の関与など、スポーツイベントと国家の利害が複雑に絡み合う事情があります。FIFAとしては、開催国の首脳との関係を強化したい思惑もあると見られますが、その結果として「サッカーは本当に政治から自由でいられるのか」という根源的な問いが改めて浮上しました。

スポーツは「政治から自由」か?――スポーツと権力の歴史的関係

ここで立ち止まって考えたいのは、「スポーツは政治から自由であるべきだ」という、よく耳にする言葉です。しかし実際には、近代スポーツの歴史を振り返ると、国家や権力との結びつきはむしろ常態でした。

  • オリンピックは「国家の威信」をかけたメダル争いの舞台となり、冷戦期には東西対立の象徴ともなった
  • サッカーW杯も、開催国のイメージ向上や外交の手段として活用されてきた
  • 軍事政権や権威主義体制が、国内の不満をそらすために大型スポーツイベントを利用した例も多い

トランプ氏に対するFIFA平和賞の授与や、名称問題への発言は、このようなスポーツと政治の近さを、あらためて目に見える形で浮き彫りにしたといえるでしょう。

斎藤幸平はどう見る?――資本主義とスポーツビジネスの視点

ここで、現代の資本主義や気候危機を批判的に分析してきた経済学者・斎藤幸平さんの議論を手がかりに、今回のニュースを考えてみます。斎藤さんは、スポーツを専門に論じているわけではありませんが、資本主義と文化・社会の関係について多くの議論を行ってきました。その視点をスポーツに応用すると、いくつかのポイントが見えてきます。

1. スポーツの「商品化」と巨大イベントの政治性

斎藤さんは、現代資本主義のもとで、あらゆるものが「商品化」され、市場原理に組み込まれていくプロセスを批判的に描いてきました。W杯やオリンピックのような巨大スポーツイベントも、その典型だと考えられます。

スタジアム建設、放映権料、スポンサー契約、観光振興など、スポーツイベントは巨大なマネーが動く場であり、その意味で「ビジネス」と「政治」が絡み合うのは避けられません。トランプ氏が、ワシントンの新スタジアム建設契約に介入する可能性をほのめかしつつ、チーム名の再変更を迫ったことは、政治権力がスポーツビジネスに直接介入している一例と見ることができます。

斎藤さんの立場からすれば、こうした動きは「スポーツそのものの純粋さ」というより、スポーツをめぐる巨大な資本と権力の結びつきの一端として理解されるでしょう。サッカーW杯の抽選会という、きわめて「演出された」舞台で名称問題を提起することも、メディアの注目を最大化し、政治的メッセージを効果的に発信する手段となっています。

2. 名前をめぐる「文化戦争」とアイデンティティ政治

「レッドスキンズ」「インディアンス」といったチーム名をめぐる論争は、単にスポーツの話ではなく、先住民族への差別、歴史認識、そしてポリティカル・コレクトネス(政治的公正)をめぐる社会全体の「文化戦争」と深く結びついています。

トランプ氏は、名称変更を「行き過ぎたポリコレ」として批判し、旧名称への回帰を主張することで、自身を支持する保守層の文化的アイデンティティを代弁している側面があります。 ここには、「伝統の尊重」という名目でマイノリティの尊厳を軽視する危うさと、「言葉を変えることで差別を是正しようとする」動きへの反発が複雑に絡んでいます。

斎藤さんは、気候危機や格差の問題を論じる際、しばしば「エリート対大衆」という単純な対立構図を批判的に捉えます。スポーツの名称をめぐる争点も、「エリートがポリコレを押し付け、庶民の楽しみを奪っている」とする感情と、「差別的表現をやめるべきだ」という正当な要求がぶつかり合う場として、同じ構図の中に位置づけられるでしょう。

3. 平和賞と「スポーツの政治利用」

FIFA平和賞の授与は、「サッカーによる平和貢献」という崇高な理念を掲げながらも、具体的には開催国首脳との関係づくりや、自らの影響力を高めるための政治的判断とも受け取られています。授与に対して「露骨にすり寄っている」「政治的中立を脅かした」という声が上がったのは、そのような裏面への直感的な反発と言えるでしょう。(読売の報道内容に基づく)

斎藤さんの議論を踏まえると、このような「平和」「スポーツの力」といった言葉が、しばしば巨大組織や国家のイメージ戦略に利用されることに注意を促すでしょう。平和賞の授与を通じて得をするのは誰か、誰の物語が強化され、誰の声がかき消されるのか――そうした問いを投げかけることが、批判的な社会科学の重要な役割です。

市民としてどう向き合うか――やさしく考えてみる

ここまで見てきたように、今回のニュースには、いくつものレイヤーが重なっています。

  • 言葉のレベルでは、「フットボール」という名称をめぐる素朴な違和感や、呼び方の文化差
  • 政治のレベルでは、トランプ氏が支持層に向けて発する象徴的なメッセージ
  • ビジネスのレベルでは、スタジアム建設やW杯開催をめぐる巨大な利害
  • 倫理のレベルでは、差別表現やマイノリティの尊厳をどう扱うかという問題
  • そして、国際機関のレベルでは、FIFAが本当に「政治的中立」でいられるのかという問い

斎藤幸平さんの議論は、こうした複雑な現実を、「資本主義の構造」や「民主主義のあり方」と結びつけて考えるヒントを与えてくれます。スポーツを「ただの娯楽」として切り離すのではなく、私たちの社会がどのような価値を大事にし、どのような不平等や差別を見過ごしているのかを映し出す鏡として見ることも、大切なのかもしれません。

もちろん、サッカーやアメフトを楽しむときに、常に政治のことを考え続けなければならない、というわけではありません。ただ、ときどき立ち止まって、「この名称は誰の歴史を背負っているのか」「この賞は誰にとってどんな意味があるのか」「このイベントで得をするのは誰なのか」といった素朴な疑問を持つことは、観客である私たちにできる小さな「参加」だといえます。

トランプ氏の発言やFIFA平和賞をめぐる論争は、スポーツと政治の距離が、思っている以上に近いことを教えてくれました。そして、その距離感をどう保つのかを決めるのは、政治家やFIFAだけでなく、スポーツを愛する一人ひとりの市民でもあります。斎藤幸平さんのような研究者の議論に耳を傾けながら、私たち自身の言葉で、この問題を考え続けていくことが求められているのではないでしょうか。

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