右肘の苦闘から復活へ。阪神ドラ1・中込伸が語る、プロ野球人生を変えた手術と再出発

元阪神タイガースの主力右腕・中込伸氏は、現在、西宮市甲子園の「炭火焼肉 伸」の店主として活躍しています。しかし、彼のプロ野球人生は、右肘の大けがとの苦しい闘いに満ちていました。1988年に阪神がドラフト1位で指名した期待の若き投手は、なぜ何度も手術台に上がることになったのか。そして、その試練がもたらした「副産物」とは何だったのか。

プロ初年度から始まった試練

中込伸氏がプロ野球の世界に足を踏み入れたのは1989年のことです。ドラフト1位という重い期待を背負っての入団でしたが、プロ初年度はフォームを崩して調整の日々に明け暮れることになりました。期待と現実のギャップに直面した若き投手にとって、それは厳しい現実でした。

転機は2年目の1990年に訪れます。しかし、それは良い転機ではありませんでした。わずか4試合への登板で、右肘痛が発症したのです。この年、中込氏はロサンゼルスのフランク・ジョーブ博士の執刀のもと、軟骨除去手術を受けることになります。1988年に全国から注目を集めて入団した期待の投手にとって、プロ2年目にして既に手術が必要になってしまったのです。

手術が生み出した「副産物」

しかし、この最初の手術には思わぬ「副産物」がありました。中込氏自身が語るところによれば、手術後にスライダーが出始めたというのです。

「手術してから、真っスラが出始めたんですよ。覚えたんじゃないです。肘が痛くて、肘を伸ばすと痛いから逃がすんですよ。そしたら手元でピュッと曲がるようになったんです」

つまり、肘の痛みから逃避するために、無意識のうちにスライダーを投げる形ができていたというわけです。苦難が、新たな武器を生み出したのです。この新しい武器が、中込氏のプロ野球人生を大きく変えることになります。

1991年、プロ初勝利への道

手術からの回復を経て、1991年9月22日。中込伸氏は大洋戦(甲子園)で、2失点無四球完投でプロ初勝利を飾ります。これは単なる初勝利ではなく、彼が試練を乗り越えたことを象徴する勝利でした。当時の阪神を率いていた中村勝広監督が、彼を信頼して起用してくれたことも大きかったといいます。

「それも(中村監督が)使ってくれたからですよ。ありがたかったですね」

この初勝利は、その後の中込氏の活躍へのきっかけとなりました。

1992年、ブレーク年

プロ4年目の1992年は、中込伸氏にとって大きなブレークの年となります。この年、彼は200回2/3を投げ、9勝8敗、防御率2.42の成績を残しました。当時、中村監督率いる阪神は、ヤクルトや巨人と優勝争いを繰り広げており、中込氏はその先発ローテーションの一角を担う重要な投手となっていたのです。

ところが、この好調さの陰には、新たな苦しみが隠れていました。シーズンの夏場を過ぎたあたりから、右肘痛に悩まされながらの投球だったのです。それでも年間を通して先発ローテーションを守り切ったのは、トレーナーの献身的なサポートがあったからこそ。中込氏自身も、そのことを忘れずにいます。

1993年、トミー・ジョン手術への決断

しかし、1992年の成功も、右肘の疲労を隠すことはできませんでした。1993年シーズンは28登板、8勝13敗、防御率3.71という成績に落ち込みます。

「もうごまかし、ごまかしで投げただけ。真っ直ぐもスピードが全然出ていなかった」

この自白が示す通り、中込氏の右肘は限界を迎えていました。直球は130キロにまで落ちており、何かおかしい状態が続いていたのです。

シーズン終了後、中込氏は再びロサンゼルスのフランク・ジョーブ博士のもとを訪れます。検査を受けた結果、博士はトミー・ジョン手術(側副靱帯再建術)を勧めました。このとき、中込氏の返答は迅速でした。

「じゃあすぐしてください」

靱帯が伸びていることを知らされた中込氏は、躊躇することなく手術を受けることを決めたのです。長期のリハビリが待っていることは、もちろん承知の上でした。

手術と笑顔の日々

中込氏が手術を即決することができたのは、現状の右肘に対して、もはや限界を感じていたからでした。そして興味深いことに、この時も彼は前向きな姿勢を失わなかったのです。

「2年目に手術で入院した時、何を食べたいかと聞かれて寿司といったら寿司が出てきたけど、その時もまた寿司って言って出てきましたよ」と笑う。

同じ寿司を所望する、というこのエピソードは、中込氏がいかにポジティブな心持ちで手術に臨んでいたかを物語ります。

リハビリの日々

トミー・ジョン手術後の回復は、決して順調ではありませんでした。中込氏によれば、靱帯が馴染むのが遅かったというのです。

「もうずーっとリハビリでした。毎日同じこと。筋力をつける、肘を伸ばす……。すごく大事に、ゆっくり、ゆっくりやりました」

このリハビリの過程で、中込氏は沖縄での療養を経験します。その際には、スキューバダイビングの免許取得など、ポジティブな経験もしました。このような前向きな取り組みが、彼の回復を支えたのだと考えられます。

さらに苦難は続きました。1994年と1995年にも、再び右肘の手術が必要になったのです。特に1995年には右肘のクリーニング手術も受けています。

復活への道のり

数度の手術と長期のリハビリを経て、中込氏は1997年に先発投手として復活することができました。そして1998年には、5年ぶりとなる規定投球回をクリアします。しかし、この年は前年ほどの安定感が得られず、セ・リーグの最多敗戦投手となってしまいました。

それでも、中込氏がプロ野球の現役生活を続けられたこと、そして先発ローテーションに戻れたことは、彼の不屈の精神と、周囲のサポートがあったからこそでした。

現在と過去の繋がり

現在、中込伸氏は西宮市甲子園で焼肉店を営んでいます。プロ野球の現役時代に味わった苦労、何度も手術台に上がった苦悩、そして長く厳しいリハビリの日々。それらすべての経験が、彼を今の姿にしています。

1988年のドラフト1位指名から、何度もの試練を乗り越え、そして野球人生に終止符を打った後も、彼は前を向き続けています。右肘との闘い、医療の力、そして何より本人の不屈の精神。それらが織りなす物語は、単なるスポーツの記録ではなく、人生そのものの記録なのです。

中込氏のキャリアは、野球がいかに身体に負担をもたらすものであるか、そしてそれでもなお投手たちがマウンドに立ち続ける理由を、私たちに教えてくれるのです。

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