サンフレッチェ広島と広島“街なかスタジアム”誕生の紆余曲折

2025年8月、広島に日本初の「街なかサッカースタジアム」であるエディオンピースウイング広島が誕生し、その歴史や背景が注目されています。今回は、このスタジアム誕生までの20年以上にわたる紆余曲折とサンフレッチェ広島の歩みを中心にお伝えします。

1. 広島のサッカーと街なかスタジアムの背景

広島は明治時代中期の江田島にあった海軍兵学校でサッカーの前身となる「フートボール」が導入された歴史を持ち、大正、昭和、平成、令和と続く広島サッカー界の変遷は深いものがあります。こうした歴史的背景を踏まえ、サンフレッチェ広島は地域に密着した存在として成長してきました。

その象徴とも言えるのが、2025年に完成したエディオンピースウイング広島です。これは単なるスタジアムではなく「街なか」に建設されたことで、アクセス性や地域との一体感を重視した新しいスタジアムの形を示しています。

2. なぜスタジアム建設に20年以上の歳月がかかったのか?

日本初の街なかスタジアムという構想自体が非常に革新的であったため、その実現には多くの課題と困難が伴いました。1980年代から広島を拠点に活動してきたサンフレッチェ広島ですが、長らくホームスタジアムは広島ビッグアーチ(旧エディオンスタジアム広島)でした。ここはアクセスに難があり、アストラムラインの駅から急坂を上らなければならず、特にご年配の観客には大きな負担となっていました。

スタジアムを「劇場」と捉えた場合、観客が何度も訪れたくなる快適性が不可欠です。アクセスの悪さはリピーター獲得の大きな障害であり、この問題を解決するために「街なかスタジアム」の構想が強く求められました。しかし、用地の確保や周辺環境との調整、財政的な課題など、多くのハードルがありました。そのため、一つ一つ問題をクリアしながら20年以上の歳月をかけて実現にこぎつけたのです。

3. 2002年W杯開催辞退とサンフレッチェの葛藤

2002年のサッカーワールドカップの日本開催が決まった際、広島県は開催都市の候補に挙がりましたが、最終的に辞退を決定しました。この判断の背景には、当時のスタジアムの設備やアクセス面での不備、そして財政的な懸念があったとされています。

これによりサンフレッチェ広島は、国際大会の開催都市としての夢を見送ることになりましたが、それが逆に今後のスタジアム建設を見据えた体制づくりや地域のサッカー振興の重要性に大きな影響を及ぼしました。辞退決定を契機に、より良いスタジアムの必要性が強く認識され、後の「街なかスタジアム」構想へとつながりました。

4. エディオンピースウイング広島開幕の意味

2025年に開業したエディオンピースウイング広島は「屋根つき」かつ市街地のど真ん中にあるサッカー専用スタジアムとして、多くのサポーターから歓迎されています。久保会長の悲願であった「街なかで快適にサッカー観戦ができる場所」の実現は、ファンのみならず市民にも根強い支持を得ています。

このスタジアムの誕生は、丹下健三氏が設計した平和記念公園周辺の都市計画の理念とも響き合っています。約75年前にエリアがスポーツや文化を通じて平和を創造する場所と定められており、スタジアム建設はその計画の現代版の完成形と言えるでしょう。

5. 今後のサンフレッチェ広島と広島の役割

新しいスタジアムは単なる競技場の枠を超え、広島の街のシンボルとなりました。スポーツの喜びや平和の価値を発信する役目を担い、地元はもちろん全国から注目されています。サンフレッチェ広島は、この新しい劇場でさらなる飛躍を期待されています。

アクセス性が大幅に改善されたことで、これまで遠慮しがちだったファン層の拡大も期待され、観客動員数の増加はすでに見られています。チームのパフォーマンスとともに、地域の活性化や文化発信の場としても今後の役割が増していくことでしょう。

まとめ

広島の街なかに完成したエディオンピースウイング広島は、2002年W杯開催辞退の悔しさや長年の課題を乗り越えた結晶です。サンフレッチェ広島の歴史とともに歩み、地域と密着しながら新たな価値を創造するスタジアムは、日本のサッカー界にとっても一つの指標と言えます。これからも街と共に成長し続けるサンフレッチェ広島の活躍に期待が高まっています。

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