太平洋戦争期の鈴鹿市に140基もの「掩体」 戦闘機を守る本土決戦の準備
2025年7月26日、鈴鹿市における太平洋戦争中の貴重な史実が明らかになりました。鈴鹿海軍航空基地には、戦闘機を敵の空襲から隠すための「掩体(えんたい)」が140基も設置されていたことがわかったのです。これは、同基地が戦局の悪化に伴い、本土決戦を想定した防衛態勢の一環として戦闘機を守ろうとする意図があったことを示しています。
「掩体」とは何か?
「掩体」は、戦闘機や爆撃機などの軍用機を敵の空襲や偵察から隠すための土やコンクリートなどで作られた格納設備のことです。太平洋戦争終盤の激しい空襲を想定し、機体の損害を防ぐために広範囲に設置されました。特に鈴鹿市の掩体数は他地域に比べて非常に多く、140基にのぼっていたのは異例の規模といえます。
鈴鹿海軍航空基地の役割と防衛の緊迫感
鈴鹿海軍航空基地は、戦局の変化とともに、本土防衛の重要拠点としての役割を強めていました。激化する戦闘機の損失をなるべく防止し、硝煙の中での戦力維持を図るべく、多数の掩体が設けられたのです。掩体の設置は航空機が地上にいる間も、攻撃目標として露出せずに済むため、空襲被害の軽減と迅速な出撃準備を両立させる工夫でした。
鈴鹿市におけるこの掩体の数は、戦時中の本土決戦に向けた強い決意の象徴ともいえます。空襲の脅威が増す中で、市民にとっては基地の存在が身近であり、戦争の厳しさを肌で感じる日々だったことでしょう。
戦争に翻弄された人々の記憶:シベリア抑留中の禁断の恋
また、太平洋戦争終結後の過酷な運命を語る証言も報じられています。戦後80年の節目の取材記事では、シベリア抑留中に出会った女性との“禁断の恋”が紹介されました。抑留者だった大石邦彦さんの証言によると、「瞳は丸く大きかった」その女性との出会いは、死の恐怖と隣り合わせの極限状態でのものでした。夜を徹してロシア語を覚え、彼らは言葉を越えた絆を結びました。
こうした体験は、多くの戦争犠牲者の知られざる人間ドラマを伝えています。シベリア抑留は数多くの日本人が過酷な環境での抑留生活を余儀なくされた戦後の厳しい現実の一端であり、その中での人間関係や感情の複雑さを改めて考えさせられます。
戦争の記憶を未来へ伝えるために
太平洋戦争終結から80年を迎えた今も、空襲被害者の救済や歴史の継承には課題が残っています。鈴鹿の掩体の存在やシベリア抑留中の個人史は、戦争の非情さと同時に人としての尊さを伝える貴重な証言です。
日本各地では、戦争の実相を次世代に伝えるための展示会や企画展が開催され、当時の記録や遺品が公開されています。こうした取り組みは、過去の悲劇を風化させず、平和の尊さを確認するために不可欠です。
鈴鹿市の掩体遺構の保護や後世への伝承は、戦争史研究と地域の歴史教育においても重要な役割を果たしています。今後も多面的な視点から戦争の記憶を掘り起こし、未来に生かしていく努力が求められています。