「ラスボス」一橋治済とは何者か――大河ドラマ『べらぼう』で脚光を浴びる実像と歴史的評価

近年放送中の大河ドラマ『べらぼう』で、生田斗真さんが演じる一橋治済(ひとつばし はるさだ)が大きな注目を集めています。
劇中では「ラスボス」「悪役」として描かれることが多い人物ですが、史実の治済は、単なる悪役とは言い切れない、きわめて複雑でスケールの大きな存在でした。

この記事では、最近話題になっている

  • 「べらぼう」の替え玉説は荒唐無稽という指摘
  • ドラマでは悪役だが「本当の勝者」とも言われる理由
  • 能楽の後援者としての文化人・一橋治済

といった新しい論点を踏まえながら、分かりやすく一橋治済の人生と評価をひもときます。

一橋治済とはどんな人物? 御三卿の当主から「幕府の影の実力者」へ

一橋治済は、江戸幕府八代将軍・徳川吉宗の孫であり、吉宗が創設した御三卿のひとつ一橋家の当主です。御三卿は将軍家に後継が絶えた時の「予備の将軍家」として設けられた家柄で、政治的にも非常に重い立場でした。
治済はこの一橋家を率いながら、将軍継嗣問題に深く関わり、やがて「幕府の影の実力者」と呼べるほどの影響力を持つようになります。

とくに重要なのは、彼が自らの子である徳川家斉(いえなり)を第11代将軍に押し上げたことです。
まだ幼い家斉が将軍となったことで、その背後にいる治済こそが、実質的な最高権力者として幕政に大きな力をふるうことになりました。

田沼意次との連携と「田沼政治」への関与

治済の名が歴史に強く刻まれる背景には、老中田沼意次との結びつきがあります。
10代将軍・徳川家治のもとで、田沼は重商主義的政策を推し進め、株仲間の保護や長崎貿易の拡大など、商業経済の活性化を図りました。

一橋治済はこの「田沼政治」を側面から支える存在であり、「黒幕的」とまで表現されることもあります。
田沼の経済政策を支持しつつ、将軍後継問題では田沼と連携し、自らの息子・家斉を次期将軍にしようと動きました。

やがて家治が亡くなり、田沼意次が失脚すると、政治の主導権は改革派の松平定信へと移っていきます。しかし、その後も治済は一定の影響力を保ちつづけ、幕府中枢にとって常に無視できない存在であり続けました。

松平定信との対立と「寛政の改革」

田沼政治を全否定し、「質素倹約」と道徳統制を掲げたのが、老中首座となった松平定信による寛政の改革です。
定信は、一橋治済が持つ強大な影響力を危険視し、幕府政治から排除しようとしました。

この対立は、政治史的にも大きな分岐点となります。

  • 田沼意次の「経済重視・重商政策」を支持した一橋治済
  • 田沼を全否定し、倹約・統制を重んじる松平定信

という構図のもと、「一橋派 対 松平定信派」の対立が激化していきました。

決定的だったのは、天皇に対する尊号をめぐる「尊号一件」です。光格天皇が父・典仁親王に太上天皇号を贈ろうとした際、家斉はこれに理解を示したのに対し、定信は「筋が通らない」として反対しました。
この問題で家斉と、その背後にいる治済の不興を買った定信は、老中首座に就任してからわずか6年ほどで失脚に追い込まれます。

定信の失脚以降、表面的には「寛政の改革」は一応の成果を残したかのように見えますが、その後の幕政は継続性を欠き、田沼時代のような積極的な経済政策も十分には受け継がれませんでした。
その背後で、一橋治済が人事などに目を光らせ続けていたことが、しばしば指摘されています。

「ラスボス」「悪役」扱いの背景――子だくさんと幕府財政への影響

大河ドラマ『べらぼう』では、「将軍にしかできない仕事は子作りだ」と父・治済がうそぶく場面が印象的に描かれていますが、これは全くの創作というわけではありません。
11代将軍・徳川家斉は、側室の数も子どもの数も歴代随一と言われるほどの子だくさんで、その子女を優遇するための抱え込み人事や扶持などが、幕府財政に重大な負担を与えました。

この「子だくさん体制」が後の幕末にまで尾を引き、譜代大名や旗本・御家人の間での不満や、政治構造の複雑化を招いたとする見方も根強くあります。
その意味で、治済が家斉を将軍に押し立て、父として強い影響力を振るったことは、後々の幕府崩壊の「遠因」として語られることが多く、「ラスボス」「悪役」といったイメージを生み出す一因ともなっています。

治済の死からわずか約40年後の慶応3年(1867年)、大政奉還によって徳川幕府は崩壊しました。
この半世紀弱の間に積み重なった財政難や政治構造のゆがみの「タネ」を、治済がまき散らしたという見方もあり、そこから「ラスボス」的な評価が生まれているのです。

「べらぼう」の替え玉説は本当? 史実が語る一橋治済の後半生

ドラマや一部の噂の中で語られる「一橋治済 替え玉説」は、「さすがに荒唐無稽」と歴史研究者からは退けられています。
史料をたどると、寛政6〜7年(1794〜1795)ごろから、治済の政治的影響力が以前ほどではなくなったことは指摘できますが、それは自然な加齢や政局の変化による「徐々な後退」に近いものであって、「別人とすり替わった」といった劇的な事件を裏付ける証拠は見つかっていません。

一方で、治済はその後も朝廷との関係や幕府内の人事において一定の存在感を保ち続け、最終的には従一位という、公家社会の中でも極めて高い位階にまで昇りつめています。
このことからも、彼が「失脚して消えた」わけではなく、立場を調整しながら長期にわたって政治的・社会的影響力を持ち続けていたことが分かります。

文化人としての顔――能楽の後援者・一橋治済

一橋治済というと、どうしても「政治の陰の実力者」「策略家」といった側面に注目が集まりがちですが、実は能楽の有力な後援者としても知られています。
当時の上流武家にとって、能は教養と権威の象徴でした。治済はその保護・支援を通じて、文化史にも確かな足跡を残しています。

このように、治済は

  • 経済・政治に深く関与した「権力者」
  • 朝廷とも結び付き、最高位近くまで昇った「宮廷貴族的存在」
  • 能楽を支えた「文化のパトロン」

という、いくつもの顔を持つ人物でした。
ドラマで描かれるような「冷酷なラスボス」というイメージだけでは、とても語り尽くせない幅の広さがあったことが分かります。

なぜ「本当の勝者」とも言えるのか――生田斗真版「一橋治済」の背景

最近の論考では、「大河ドラマではラスボス・悪役扱いだが、一橋治済はむしろ『本当の勝者』といえるのではないか」という指摘もなされています。
この評価の背景には、いくつかのポイントがあります。

  • 息子を将軍にした:自らの子・徳川家斉を第11代将軍に就けることに成功し、御三卿の当主としてこれ以上ない成果を上げた。
  • 長期にわたる影響力:家斉の幼少期には実質的な「院政」を行い、成長後も長く政治や人事に影響を与え続けた。
  • 朝廷との関係強化:尊号一件などを通じて朝廷とのパイプを持ち、「従一位」まで昇ることで、公武双方に足場を築いた。
  • 文化的権威の獲得:能楽の後援者として文化史にも名を残し、単なる権力者以上の存在感を示した。

幕府そのものは、治済の死後約40年で大政奉還という終幕を迎えますが、その過程で「徳川将軍家の権勢を最大限に拡張し、その一族を全国に張り巡らせた」のは、家斉治世の時代でした。
治済は、その土台を築いた人物でもあります。

もちろん、その政策や人事が後の幕府崩壊の一因となったという批判も避けられません。しかし、「自分の時代において、どこまで目的を達成したか」という観点から見れば、一橋治済は、きわめて高い成功を収めた政治家であったことも事実と言えるでしょう。

「ラスボス」一橋治済をどう見るか――現代的な視点から

現代の私たちが一橋治済を見るとき、「善悪二元論」で片付けてしまうのは、ややもったいないかもしれません。
ドラマ『べらぼう』での迫力ある悪役像は、物語としての面白さを大いに引き立てていますが、史実の治済はそれ以上に、

  • 変動期の江戸幕府を生き抜いたきわめて老練な戦略家
  • 経済・政治・朝廷・文化という複数の舞台を同時に動かしたマルチプレーヤー
  • その成功がゆえに、後代に「負の遺産」も残した光と影の人物

として理解する必要があります。

一橋治済を「最恐ラスボス」と呼ぶのか、「本当の勝者」と呼ぶのか。
答えは一つではありませんが、ドラマと史実の両方に目を向けることで、江戸後期という時代そのものの面白さが、より立体的に見えてくるのではないでしょうか。

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