WHOが伝統医学の可能性に注目 南東アジア地域で新たな動きが本格化

世界保健機関(WHO)が、各国に古くから受け継がれてきた伝統医学の可能性にあらためて光を当て、国際的な取り組みを本格化させています。
同時に、南東アジア地域ではWHOの地域事務所ビルの新設が進み、インドのモディ首相は「便利さの陰で新たな健康課題が生まれている」と警鐘を鳴らしました。
これらの動きは、「私たちはこれからどのように健康を守るのか」という問いに対する、新しいヒントを示しています。

伝統医学は「未開拓の宝」 WHOが本格研究へ

WHOは、アフリカの薬草療法、中国の鍼治療、インドのヨガや瞑想など、世界各地で受け継がれてきた伝統医学を、「人類の健康を支えてきた重要な知恵」として再評価しています。
WHO伝統医学世界センターのシャマ・クルヴィラ所長は、こうした方法の多くが、実際に健康に役立つことを示すデータが蓄積されつつあると述べ、「大きな可能性」を持つ分野だと強調しています。

一方で、これまで多くの伝統的な治療法は、「科学的な証拠が不十分」という理由で、近代医学の議論の場から外れてきました。
そこでWHOは、伝統医学の効果と安全性をきちんと検証し、必要なものを正しく取り入れていくために、国際的な研究と政策づくりを進めています。

世界の8割が伝統医学を利用 なのに制度の外に

WHOなどの調査によると、開発途上国では人口の約8割が、主要な医療ニーズを伝統医学に頼っているとされています。
しかし、多くの国では、伝統医学や補完・統合医療の多くが公的な医療制度の枠外にあり、十分な規制や品質管理がなされていないケースも少なくありません。

それにもかかわらず、ハーブ療法や鍼、マッサージ、ヨガ、瞑想といった伝統的・自然志向の手法は、世界的に利用が広がっています。
背景には、以下のような要因があります。

  • 医療費の高騰により、比較的低コストな伝統療法への関心が高まっていること
  • 「自然なもの」「植物由来のもの」を選びたいという生活者の志向
  • 長年受け継がれてきた医療知識を、文化的な遺産として大切にしたいという考え方

一方で、こうした療法の中には、科学的な検証が十分でないものや、適切な使い方が守られないことで健康被害につながる可能性が指摘されるものもあります。
そのためWHOは、「頭ごなしに否定する」でも「無条件に受け入れる」でもなく、しっかり調べて賢く活用するという姿勢を打ち出しています。

新たな世界戦略「WHO伝統医学戦略 2025–2034」

加盟国の議論を受けて、WHOは今後10年間にわたる新たな「WHO伝統医学戦略 2025–2034」を策定し、実行していく方針です。
この戦略のねらいは、伝統的・補完的・統合的医療(TCIM)が、健康とウェルビーイングにどのように貢献できるのかを科学的に明らかにすることにあります。

この中では、特に次のような点が重視されます。

  • 伝統医学の効果と安全性を検証するための研究を進めること
  • 治療法や施術者についての適切な規制や資格制度を整えること
  • 有効性が確認された方法については、必要に応じて一般の医療システムへ統合していくこと
  • 先住民や地域の人々の知識体系や文化を尊重しながら進めること

WHOの専門家は、伝統医学を「各国の文化遺産や、健康に対するアイデンティティを映すもの」と表現し、プライマリ・ヘルスケア(身近な医療)の戦略において、ますます重要な役割を担う可能性があると指摘しています。

「伝統医学グローバル・ライブラリー」で世界の知恵を共有

WHOは現在、伝統医学、補完医療、統合医療に関する世界で最も包括的なデジタル知識リポジトリとなる「伝統医学グローバル・ライブラリー(TMGL)」の立ち上げ準備を進めています。
このライブラリーは、2025年12月にインド・ニューデリーで開催されるWHO伝統医学グローバル・サミットで公開される予定です。

TMGLは、世界各地に散らばるさまざまな情報を収集・保存・共有し、誰もが公平にアクセスできるようにすることを目指しています。
これにより、研究者や医療者、政策担当者だけでなく、各国の地域コミュニティも含めて、伝統医学に関する最新で信頼できる情報にアクセスしやすくなると期待されています。

TMGLの特徴として、次のような点が挙げられます。

  • さまざまな国・地域の先住民の知識や経験を尊重しながら整理する
  • 単に文献を集めるだけでなく、政策づくりや教育、医療現場での意思決定を支えるための情報基盤とする
  • WHO伝統医学戦略 2025–2034の実行を支える中核的な仕組みとして機能する

WHO加盟国のうち170か国が、何らかの形で伝統医療を利用していると報告されていますが、その割に科学的・政策的な議論の中で伝統医療が占める割合はまだ小さいとされます。
TMGLは、こうした「情報のギャップ」を埋め、議論の土台を強くしていくことを目指しています。

医療人材不足や医療費の課題にも貢献の可能性

WHOの専門家は、伝統医学が単なる補助的な療法にとどまらず、世界が抱える医療の大きな課題を解決する一つの手だてになり得ると見ています。

たとえば、次のような観点が挙げられます。

  • 多くの国で慢性的な医療人材不足が問題となっているなか、伝統医学分野には豊富な人材が存在する
  • 適切な研修や制度整備を行えば、地域に根ざした伝統医療従事者が、プライマリ・ヘルスケアを支える重要な担い手となり得る
  • 医療費の高騰が続く中、科学的に有効性が確認された伝統療法は、比較的低コストな選択肢として役立つ可能性がある
  • 自然災害や感染症の流行などで医療体制が揺らいだときにも、地域の伝統医療資源を活かすことでレジリエンス(回復力)を高められる可能性がある

こうした観点から、ある専門家は伝統医学を「まだ十分に活用されていない宝の山」と表現しています。
ただし、その「宝」を掘り起こすには、しっかりとした研究や規制、教育が欠かせないことも同時に強調されています。

モディ首相が投げかける問題提起 「便利さ」と健康の関係

インドのナレンドラ・モディ首相は、近年のスピーチの中で、「身体をほとんど動かさなくても、あらゆるものが手に入る時代」がもたらす新たな健康課題について言及しています。
交通手段やデジタル技術の発達により、私たちは少ない労力で多くのサービスや物資を利用できるようになりました。これは大きな利点である一方で、運動不足や生活習慣病の増加といった問題にもつながっています。

モディ首相は、こうした「便利さの時代」にあってこそ、ヨガや瞑想、伝統的な運動法といった身体と心のバランスを整える習慣が、より重要になっていると指摘してきました。
WHOもまた、生活習慣病の予防や心の健康の維持において、適切な運動やストレス管理が欠かせないと強調しており、その一部としてヨガや瞑想などの活用が検討されています。

ここには、「最新技術」と「古くからの知恵」を対立させるのではなく、両方を上手に組み合わせて健康を守るという発想があります。
まさに、WHOが伝統医学を科学的に評価し、必要な部分を医療システムに統合していこうとしている動きと、深くつながっていると言えるでしょう。

WHO南東アジア地域事務所の新ビルが開所 地域連携を強化

WHOは、南東アジア地域での活動拠点となる地域事務所ビルの新設・更新にも取り組んでいます。
新しい建物は、各国政府、研究機関、国際機関、市民社会などが集まり、保健医療に関する課題を話し合い、協力して解決策をつくっていくためのハブ(拠点)として位置づけられています。

この地域は、感染症対策、母子保健、非感染性疾患(生活習慣病)への対応に加えて、伝統医学が日常生活に深く根付いていることでも知られています。
インド、タイ、中国、スリランカなど、多くの国々で、アーユルヴェーダや中医学、ハーブ療法などが幅広く用いられています。

新たな地域事務所ビルの開所は、こうした国々とWHOが連携しながら、次のような取り組みを進めていく基盤になるとみられます。

  • 伝統医学に関する情報共有や共同研究の推進
  • 各国の状況に応じた政策づくりの支援
  • 災害や感染症流行時を含めた公衆衛生対応の連携強化
  • デジタル技術やAIを活用した、新しい健康サービスの在り方の検討

インドをはじめとする南東アジアの国々は、伝統医学の活用において先進的な取り組みを進めており、WHOもそれを高く評価しています。
新ビルの開所は、こうした各国の経験や知恵を、地域全体、そして世界へと広げていくための、象徴的な一歩と言えます。

「誰もが健康でいられる未来」のために

WHOが今進めている伝統医学への取り組みと、南東アジア地域での体制強化は、一見すると専門家だけの話のように思えるかもしれません。
しかし、その背景には、次のような私たち一人ひとりの生活に直結するテーマがあります。

  • 身近にある伝統的な知恵や療法を、どう安全に、賢く活かしていくか
  • 高度な医療だけに頼るのではなく、日々の暮らしの中で自分の健康を守る力をどう育てるか
  • 「便利さ」と「運動不足」「ストレス増大」の両方が進む時代に、どのように心と体のバランスを取るか
  • 限られた医療資源を、世界中の人々が公平に利用できる仕組みをどう作るか

伝統医学は、決して「なんとなく効きそうだから使うもの」ではなく、科学的に評価されるべき医療資源の一つとして扱われようとしています。
WHOが進める研究や政策づくりは、「古いものをそのまま残す」ことが目的ではなく、「よいものを見きわめて、未来の健康づくりに生かしていく」ための試みです。

これから数年の間に、TMGLの稼働や新戦略の本格的な実行を通じて、伝統医学をめぐる国際的な議論は、さらに進んでいくとみられます。
その中で、私たち一人ひとりも、自分の暮らしや地域に伝わる知恵に目を向けながら、「どのような健康のあり方を大切にしたいのか」を考えていくことが求められているのかもしれません。

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