「ばけばけ」で注目、ラフカディオ・ハーンと3人の女性たち――知られざる愛と人生のドラマ
NHK朝ドラ『ばけばけ』の放送にあわせて、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と、その生涯を支えた日本人女性たちに注目が集まっています。とくに話題になっているのは、妻・小泉セツだけではなく、彼が日本で最初に深い愛情を注いだという「若くして亡くなった女中」の存在、そしてハーンの結婚観そのものです。本記事では、最新の論考や研究を手がかりに、3つのニュース内容を軸として、ハーンと3人の女性の人生ドラマを、やさしい言葉でひもといていきます。
ラフカディオ・ハーンとは? 日本に魅せられた「八雲さん」
ラフカディオ・ハーン(1850–1904)は、ギリシャ生まれ、アイルランド系の父とギリシャ人の母を持つ作家で、のちに日本に帰化して「小泉八雲」と名乗りました。日本の怪談や民話を英語で紹介し、西洋に「日本」という国の魅力を広く伝えた人物として知られています。 日本各地で英語教師として働き、とくに島根県松江市や熊本での生活が、その後の著作に大きな影響を与えました。
ニュース内容1:八雲が最初に愛情を注いだ「23歳で亡くなった女中」の悲しい生涯
最近の報道や論考では、「女中セツでも、県知事の娘でもない…」という見出しで、ハーンが日本で最初に深い愛情を注いだとされる「若い女中」の存在が紹介されています。 彼女は23歳という若さで亡くなっており、その悲しい生涯が「もしこの人がいなければ、八雲とセツは出会わなかった」とまで語られるほど、物語上の重要な人物として取り上げられています。
この記事によれば、この若い女中は、ハーンが松江で暮らし始めた初期の生活を支えた存在であり、異国の地で孤立しがちだった彼にとって、精神的な支えでもあったとされています。 貧困や社会的な制約の中で働かざるをえなかった女性が、やがて病や不運のため、23歳でこの世を去る——そうした背景が強調され、「名もなき女性労働者の人生」に光を当てる論調が目立ちます。
また、この女中との出会いと別れが、のちにハーンが日本女性に対して抱くイメージや、セツとの関係性にも間接的に影響したと分析する見方も紹介されています。 つまり、ハーンと日本の女性たちの物語は、著名な「妻セツ」以前から、すでに始まっていたという視点です。
ニュース内容2:「やっぱり小泉セツは単なる女中ではなかった」――士族の娘としての誇りと役割
次に、もっとも有名な女性である小泉セツについて見ていきましょう。最近の記事や特集では、「セツは“ただの女中”ではなかった」という表現が繰り返されています。 その背景には、セツの出自と、生涯を通じた役割の大きさがあります。
没落士族の娘として生まれたセツ
セツは1868年、松江藩士・小泉家の次女として生まれました。 父・小泉湊は三百石取りの家柄で、母方も出雲国造・千家家と縁戚にある名家の出でした。 本来であれば、裕福な士族の娘として育つはずでしたが、明治維新による武士階級の没落で、実家も養家も急速に貧しくなっていきます。
生後まもなく、子のなかった親戚・稲垣家に養女として出され、そこで育てられたセツは、尋常小学校で優秀な成績を収めるほど勉強熱心でした。 しかし、稲垣家の生活は苦しく、上の学年へ進学することは許されませんでした。 11歳の頃からは機織りに励み、家計を支える生活に入ります。
離婚と「女中」という選択
18歳で婿養子を迎えて結婚したものの、その夫は家の貧しさに耐えられず出奔し、1年足らずで別離を迎えます。22歳で正式に離婚しました。 子どもがいなかったため、稲垣家を離れて実家の小泉家に戻りますが、そこもまた困窮していました。
実家と養家の両方を経済的に支える必要に迫られたセツに残された選択肢は、「若い西洋人の男がひとりで暮らす家に、住み込みの女中として入る」という仕事でした。 当時の価値観からすると、若い女性が単身で外国人男性の家に住み込むことは、周囲の冷たい視線や偏見を招く決断でもありました。 しかし、それ以外に家族を支える道はなかったのです。
この「住み込み女中となる」という苦渋の選択こそが、1891年、松江の中学校に英語教師として赴任していたラフカディオ・ハーンとの出会いにつながります。
ハーンの期待を裏切った「サムライのムスメ」
ハーンは松江に赴任した際、日本での生活の手助けをしてくれる女中を探していました。 ジャポニスムの影響で、日本女性に対して「華奢で儚げなサムライの娘」といった理想化されたイメージを抱いていたハーンは、「サムライのムスメ」をリクエストして紹介を待っていたといいます。
ところが、彼の前に現れたセツは、腕も足も太く、たくましい女性でした。 戦後に出版された『松江における八雲の生活』には、ハーンが「これは士族のお嬢さまではない、百姓の娘だ」と不満を漏らしたと記されています。 しかし、セツはれっきとした士族の娘であり、幼い頃からの貧困と機織り労働によって、自然に体が鍛えられていったのでした。
この出会いのギャップこそが、「単なる女中」ではなく「没落士族の娘」としてのセツの姿を浮かび上がらせます。
ニュース内容3:「ばけばけ」とハーンの結婚観――アメリカで禁じられた結婚と「最初の妻」との共通点
『ばけばけ』の背景としてよく取り上げられるのが、ハーンの「結婚観」と、アメリカ時代の最初の妻の存在です。ハーンは日本でセツと再婚しましたが、それ以前にアメリカ・ニューオーリンズで、当時の法律では禁じられていた「人種をまたぐ結婚」を経験しています。
19世紀のアメリカ南部では、白人と有色人種(とくに黒人・混血)の結婚は多くの州で法律上禁止されていました。そのような中で、ハーンはクレオール系の女性と事実上の夫婦関係を結び、周囲の偏見や社会的圧力にさらされることになります。この結婚は、のちに破綻や別離を迎えますが、「なぜ危険を承知で禁じられた結婚を選んだのか」という問いは、現代でもたびたび論じられています。
最近の解説では、ハーンがアメリカで最初に結ばれた妻と、日本で再婚したセツとのあいだに、「身分的・社会的に弱い立場に置かれた女性」「貧困や差別の中で生きる女性」という共通点があるのではないかと指摘されています。 つまり、ハーンは一貫して、社会的に声を上げにくい女性たちに寄り添い、そこに人間としての尊厳や美しさを見出していたのではないか、という見方です。
『ばけばけ』というドラマタイトルが示すように、ハーンは「怪談」だけでなく、「世の中の目には見えにくいもの」「表には出ない人々の思い」を見つめ続けた作家でした。その視線は、自身の結婚生活や、そばにいた女性たちにも向けられていたといえるでしょう。
セツに求められた「妻以上の役割」――通訳、編集者、語り部として
「やっぱり小泉セツは単なる女中ではなかった」というテーマに立ち返ると、現代の研究や紹介記事が強調するのは、セツがハーンにとって「妻」であると同時に、「創作のパートナー」「語り部」「リテラリーアシスタント(文筆助手)」でもあったという点です。
ハーンは来日当初、日本語をほとんど理解できませんでした。 そこで、セツは彼との意思疎通のために、英語を必死で学びます。彼女の「英語覚え書き帳」には、「トマール(明日)」「ワエン(酒)」といった出雲なまりのカタカナが並んでおり、言葉の壁を懸命に越えようとする姿が見て取れます。
やがて夫婦となった二人は、松江から熊本、神戸、東京へと移り住み、その間に三男一女を授かります。 セツは、子どもたちの世話や家事をこなしながら、ハーンの創作活動も陰で支え続けました。
幼い頃から物語好きだったセツは、地方に伝わる怪談や民話を数多く知っており、それをハーンに語って聞かせました。 ハーンはそれらの話を英語で再話し、世界的に知られる怪談集として出版していきます。 つまり、私たちが「ラフカディオ・ハーンの怪談」として知っている作品群の多くは、セツの語りがなければ生まれなかった可能性が高いのです。
この意味で、セツはハーンの「育ての親」ともいえる存在でした。 彼の作品世界に、日本的な情感や「孝(親や家族へのつとめを重んじる心)」というテーマを注ぎ込んだのも、セツの生き方と語りであったとされています。
「NHK朝ドラでは描きづらい」ハーンとセツの関係性
一方で、近年の特集記事の中には、「NHK朝ドラでは描きづらいハーンがセツに求めた役割」といった表現も見られます。これは、二人の関係が単純な「恋愛・結婚物語」にとどまらず、当時のジェンダー観や階級、そして植民地主義的な視線とも絡み合っているためです。
ハーンは、西洋人男性として日本社会の外側からやって来て、内側の世界――とくに「家」の中の生活や、日本語で語られる物語――にアクセスするために、セツの力を必要としました。 セツは、家事や子育てだけではなく、日本社会への案内役、通訳、作品の素材提供者として、多重の役割を担わされていたともいえるでしょう。
しかし、その一方で、セツ自身もまた、「没落士族の娘」「離婚経験のある女性」「貧困に苦しむ家族を抱えた一人の人間」として、この結婚を「生きるための選択」として受け止めていました。 ハーンとの結婚は、経済的安定をもたらしただけでなく、自身の物語好きな性格を活かし、語り部として生きる道を開きました。
こうした複雑な関係性――愛情、依存、経済的必要、文化的翻訳者としての役割――は、朝ドラのようなフィクション作品の中では、どうしても単純化されがちです。そのため、近年の論考では、「ドラマの爽やかなロマンスだけでなく、その背後にあるセツの重い選択と、ハーンの“求めた役割”も忘れてはならない」と論じられているのです。
夫婦として過ごした13年余りと、その後の27年
松江で出会ってから、ハーンが亡くなる1904年まで、セツが夫とともに過ごした時間は、約13年8か月とされています。 ハーンと出会うまでの23年、そして夫を見送ってから亡くなるまでの27年と比べると、意外なほど短い期間です。
しかし、セツにとってこの13年余りこそが、もっとも「生きがいを感じた時間」であったと伝えられています。 家族を支えるために女中の道を選び、異国人の妻となり、語り部として作品づくりに関わる――セツの人生の喜びも苦しみも、この期間に凝縮されていました。
ハーンの死後、セツは能や茶道など、武家のたしなみを楽しみながら、子どもや孫たちに囲まれて暮らしました。 時に怒りっぽくなったとも伝えられますが、それは最愛の夫を失った寂しさの表れでもあったのかもしれません。 1932年、64歳でその生涯を閉じます。
3人の女性が照らし出す、ハーンと「見えない人々」へのまなざし
今回取り上げた3つのニュース内容を並べてみると、ラフカディオ・ハーンの人生には、3人の重要な女性が浮かび上がります。
- アメリカで、法律に反してまで結婚した「最初の妻」――人種差別にさらされた女性
- 日本で最初に深い愛情を注いだとされる、23歳で亡くなった「若い女中」――貧困と早すぎる死に直面した女性
- 没落士族の娘として生まれ、家族を支えるために女中となり、やがて妻・語り部・創作のパートナーとなった「小泉セツ」
この3人はいずれも、社会の中で弱い立場に置かれがちな存在でした。ハーンは、そうした女性たちの内面や苦労に目を向け、彼女たちが語る物語や日常の営みから、数多くの作品を生み出しました。
「なぜハーンは、アメリカで禁じられた結婚をし、日本では没落士族の娘であり女中でもあったセツを生涯の伴侶に選んだのか」という問いに、ひとつの明快な答えを出すことはできません。ただ、彼が常に「表舞台には立たない人々」「世の中からは見えにくい存在」に温かな視線を向け続けた作家であったことは、これらの女性たちの人生が、今、あらためて注目されている事実からも伝わってきます。
朝ドラ『ばけばけ』をきっかけに、その裏側にある実在の人々の物語に目を向けてみると、小泉八雲という作家の作品だけでなく、明治という時代を生きた名もなき人々の姿も、少しずつ輪郭を帯びて見えてくるのではないでしょうか。


