「皆さんと近い舞台に」――片岡仁左衛門、大阪松竹座と歩んだ人生と思い出の名残舞台
大阪・道頓堀の大阪松竹座が、約100年の歴史に幕を下ろそうとしています。1923(大正12)年に開場し、「道頓堀の凱旋門」と呼ばれ親しまれてきた劇場は、2026年5月の公演を最後に閉館することが決まりました。再開場後は演劇専門劇場として、歌舞伎を中心に数々の名舞台を生み出してきたこの劇場に、別れを告げる時が近づいています。
その「さよなら公演」の中心に立つのが、上方歌舞伎を代表する名優、片岡仁左衛門さんです。幼い頃から松竹座とともに歩み、数えきれないほどの舞台を重ねてきた仁左衛門さんにとって、大阪松竹座はまさに「自分を作ってくれた場所」。その劇場で行われる御名残公演で、「皆さんと近い舞台に」と語りながら、最後まで芸の道を追い続ける姿勢を見せています。
大阪松竹座、100年の歴史に幕――「わたしを作ってくれた場所」
大阪松竹座は、1923年5月に開場して以来、およそ100年にわたり大阪・道頓堀の象徴として愛されてきました。アーチを描く華やかな外観は「道頓堀の凱旋門」として知られ、多くの観客がここで歌舞伎や新派、ミュージカル、人気公演を楽しんできました。
1997(平成9)年の再開場以降は、演劇専門劇場として生まれ変わり、歌舞伎をはじめとした多彩な舞台芸術を上演してきました。上方歌舞伎の拠点であり、若手から大御所まで、多くの役者がここで鍛えられ、羽ばたいていった場所でもあります。
しかし、その大阪松竹座が2026年5月をもって閉館することが発表されました。観客にとっては、思い出が詰まった劇場との別れであり、舞台に立つ役者たちにとっても、特別な意味を持つ節目となります。なかでも長年松竹座で数々の当たり役を演じてきた片岡仁左衛門さんにとって、このニュースは胸に迫るものがあったといいます。
取材会などで仁左衛門さんは、大阪松竹座について「自分を育ててくれた、大事な場所」「わたしを作ってくれた場所」といった趣旨で語り、100年近い歴史を重ねてきた劇場への感謝の思いを繰り返し口にしています。華やかな舞台の裏にある、長い時間と多くの人の支え。そのすべてに対する「感謝は尽きない」との言葉には、役者として歩んできた人生の重みがにじみます。
「皆さんと近い舞台に」――名残の公演に込める思い
大阪松竹座の閉館にあたり、4月・5月には「大阪松竹座さよなら公演」として、御名残公演が行われます。なかでも注目されているのが、5月の「御名残五月大歌舞伎」です。
公演に先立つ取材の場で、片岡仁左衛門さんは「最後だからといって、特別なことをするというより、これまでやってきたことを、さらに磨きをかけてお届けしたい」といった趣旨の言葉を述べ、「基本的には今までとそう変わらない。磨きをかけていくだけ」と語っています。最後という特別な舞台であっても、あくまで芸の研鑽を続ける一つの場として臨む姿勢が印象的です。
一方で、閉館を前に「皆さんと近い舞台に」との思いも口にしています。長年、客席との距離が近い松竹座で芝居を重ねてきただけに、「お客様と一緒に場をつくる」感覚を大切にしてきたのでしょう。100年の歴史を締めくくる名残の公演でも、お客様と心を通わせながら、一幕一幕を丁寧に演じることを心がけていることがうかがえます。
御名残五月大歌舞伎の内容――名作と新たな試みによる掉尾の一打
大阪松竹座さよなら公演の掉尾を飾る「御名残五月大歌舞伎」は、2026年5月2日から26日まで上演されます。昼の部は午前11時から、夜の部は午後4時30分からの開演が予定されており、多くの観客が最後の松竹座に足を運ぶことになりそうです。
演目には、古典の名作から、近代文学を取り入れた作品、そして舞踊公演まで、多彩なプログラムが並びます。特に注目されるのが、片岡仁左衛門さんも出演する「盛綱陣屋」です。
「盛綱陣屋」は、源平合戦を題材とした名作で、武将・佐々木盛綱の苦悩と決断を描いた、重厚な人間ドラマとして知られています。今回の公演では、佐々木盛綱の役を片岡仁左衛門さんが務め、ほかに片岡孝太郎さん、中村愛之助さん、中村壱太郎さんらが名を連ねています。親子や一門が揃って出演することで、上方歌舞伎の厚みのある座組が実現しています。
また、三島由紀夫作による作品や、落語「星野屋」をもとにした「心中月夜星野屋」など、近代以降の文学・落語を取り入れた演目も組まれています。元芸者のおたかと、青物問屋「星野屋」の照蔵との、どこか滑稽で、そして切ない「心中騒動」を描いた「心中月夜星野屋」では、中村七之助さん、中村扇雀さん、中村鴈治郎さんらが出演し、笑いと人情が交錯する舞台を繰り広げます。
さらに、公演の終盤を飾るのは、能楽の『翁』を題材とした舞踊「當繋藝招西姿繪(つなぐわざおぎにしのすがたえ)」です。この舞踊は、天下泰平・五穀豊穣・国土安穏を祈る、格調高い世界を描くもので、翁と千歳、三番叟が登場し、荘重な舞と躍動感あふれる踊りを見せます。
前半は翁と千歳が厳かに舞い、続いて三番叟が軽妙洒脱な踊りで舞い納める構成となっており、松竹座の御名残公演の掉尾を飾るにふさわしい、一幕となっています。この舞踊を監修するのが片岡仁左衛門さんであることも、特筆すべき点です。ただ自らが出演するだけでなく、次世代につなぐ「芸」の在り方を見つめる役割も担っていることがわかります。
「どこまでも完成なき芸」――冷酷な役も美しく演じる求道者
片岡仁左衛門さんといえば、二枚目の色気と品格のある立ち姿で知られ、上方歌舞伎を代表する大立者として長年第一線に立ち続けてきました。若い頃から、女方・立役ともに幅広い役柄をこなし、とりわけ「悪の華」を感じさせるような役柄でも、どこかに美しさをたたえた演技が高く評価されています。
産経新聞のプレミアムトークでは、「どこまでも完成なき芸」として、仁左衛門さんの芸のあり方が紹介されています。たとえ冷酷で非情な役であっても、決して乱暴に演じるのではなく、細部にまで心を配りながら、全身全霊で「美」を追求する姿が印象的だといいます。悪役であっても、ただの「悪人」では終わらせず、その人物が持つ生きざまや矜持を、静かな気迫とともに浮かび上がらせるのが、仁左衛門さんの持ち味です。
本人も「芸に完成はない」との思いを長年抱き続けており、年齢を重ねてもなお新たな課題を見つけては、ひとつひとつ乗り越えようとしていると語っています。大阪松竹座での名残公演についても、「最後だから特別なことをする」のではなく、「これまで積み重ねてきた芸を、より高みに持っていくための場」として捉えている姿から、その終わりなき探求心がうかがえます。
大阪松竹座と片岡仁左衛門――役者人生と劇場の記憶
片岡仁左衛門さんが初めて松竹座の舞台に立ったのは、まだ幼い頃のことでした。それから数十年にわたり、大阪松竹座は仁左衛門さんのホームグラウンドとなり、新作・復活狂言、古典の名作など、さまざまな挑戦を重ねてきました。
ときには新しい演出や試みも取り入れながら、伝統を守るだけでなく、次の時代につながる歌舞伎のスタイルを模索してきた場でもあります。多くの若手俳優が、この松竹座の舞台で仁左衛門さんと共演し、その背中から芸の厳しさと楽しさを学んできました。
劇場は、観客席と舞台が一緒になって「ひとつの空気」を作り出す場所です。とりわけ大阪松竹座は、客席との距離が近く、観客の息づかいまで感じられる劇場として知られてきました。その空間で演じることは、役者にとって大きな喜びであり、時には緊張感を伴うものでもあります。
仁左衛門さんが「皆さんと近い舞台に」と語るとき、そこには、過去に何度も松竹座で経験してきた「お客様と一体になる瞬間」への愛着が込められているのでしょう。笑いが起きるタイミング、客席から伝わる静かな集中、幕が下りたあとも残る余韻――それらの記憶が積み重なって、今の仁左衛門さんの芸を形づくってきたのだと考えられます。
観客とともに迎える「さよなら」――御名残公演の意味
「さよなら公演」とは、単に劇場が閉まるから行うというものではありません。これまでに劇場を支えたすべての人――役者、裏方、スタッフ、そして観客への感謝の気持ちを形にする場でもあります。
大阪松竹座さよなら公演の企画には、そうした思いが随所に込められています。古典の名作を大切に上演しつつ、落語や近代文学を取り入れた演目も並べることで、「これまでの松竹座」と「これからの上方芸能」の両方を感じられる内容になっています。また、幹部俳優が一堂に会し、華やかな舞踊「當繋藝招西姿繪」で舞台の幕を閉じることで、「芸は続いていく」というメッセージも読み取れます。
片岡仁左衛門さんが監修を務めるこの舞踊は、まさに「つなぐ」という言葉をタイトルに掲げています。翁・千歳・三番叟が、天下泰平と五穀豊穣、そして国の安穏を祈るという題材は、「どんな時代になっても、人々の平穏な暮らしを願う心は変わらない」という、芸能の原点のような祈りを表しています。
大阪松竹座は閉館しますが、そこで培われてきた芸は、次の世代へと確かに受け継がれていきます。御名残公演の舞台上で交わされる一挙手一投足、一言一言が、その「バトン渡し」の瞬間になるのでしょう。
これからの歌舞伎と観客へのメッセージ
大阪松竹座という一つの劇場の歴史は、2026年5月で区切りを迎えます。しかし、上方歌舞伎、そして日本の舞台芸術全体の歩みは、ここからも続いていきます。
片岡仁左衛門さんは、役者生活70年以上を経た今もなお、「芸に完成はない」という信念を持ち続けています。冷酷な役も、情の深い役も、すべての役に全身全霊で向き合い、その人物の生き方を美しく浮かび上がらせることに心を砕いてきました。その姿勢は、今後も多くの役者たちの手本となり続けるでしょう。
大阪松竹座のさよなら公演は、一つの終わりであると同時に、新しい始まりでもあります。観客にとっては、「あの席で観たあの芝居」を心に刻み、これからまた別の劇場で、新たな出会いを重ねていくきっかけとなるはずです。
そして、その歩みの中心には、向上心を忘れず、どこまでも芸を磨き続ける人々の姿があります。片岡仁左衛門さんが、大阪松竹座の最後の舞台に立つという事実は、「歌舞伎のバトンは、これからも確かにつながれていく」ということを、静かに、しかし力強く伝えているように感じられます。
「皆さんと近い舞台に」という言葉どおり、観客と役者が同じ空気を吸い、同じ時間を共有する劇場という空間は、これからも形を変えながら生き続けていきます。その記憶の中に、大阪松竹座と片岡仁左衛門という名前は、きっと長く刻まれ続けることでしょう。




