荒川河川敷に刻まれた「記憶」:子どもたちの遊び場が伝え続ける負の歴史
はじめに
東京都墨田区の荒川河川敷は、多くの子どもたちや家族が訪れる憩いの場所として親しまれてきました。しかし、この場所には、私たちが忘れてはならない歴史すなわち1923年の関東大震災下で起きた朝鮮人虐殺の現場であったという、痛ましい過去が刻まれています。
この過去を直視し、次世代へと継承していこうとする取り組みが今年も行われました。現地で何が語られ、どのように記憶が受け継がれているのか。「子どもの頃遊んだ河川敷が、虐殺の現場だったなんて…」という声に表れる衝撃、そして祈りと誓いが込められた追悼の現場を、丁寧にご紹介します。
追悼式が開かれるまで
-
荒川河川敷での朝鮮人虐殺は、被害を目撃した人々の証言によってその存在が明らかになりました。1923年の関東大震災直後、混乱と差別、不安が人々を襲い、不条理な暴力がこの地で繰り広げられました。
-
目撃証言には、「針金で縛した朝鮮人に石やビール瓶などを放っている」「石油をぶっかけて火を付けられている」という、人間として決して許されない残虐な行為の様子が記録されています。
-
これらの事実を後世に伝え、同じ過ちを決して繰り返さないという強い意志が、追悼式の中心に据えられています。
受け継がれる追悼と祈り
荒川河川敷での犠牲者追悼式は、一般社団法人「ほうせんか」によって始められ、今年で44回目を迎えました。
この活動は証言の収集を核に据え、単なる歴史の記録にとどまらず、「私たちが直面した現実」としての自覚や問い直しを、地域社会とともに行ってきました。
近年では、歴史を学び、深く考えようと集まった若者のグループ「ペンニョン」(韓国・朝鮮語で「100年」の意味)が運営に参加し、世代を超えて取り組みの輪が広がっています。
追悼式では亡くなった方々への黙とうが捧げられ、朝鮮半島の伝統芸能「風物(プンムル)」が演じられ、音とリズム、祈りが一体となって空気を包みます。
証言から伝わる「生の記憶」
-
参加者の中には「子どもの頃遊んだ場所に、まさかこんな歴史があったなんて…」と語る地元の方もいます。
観光地や日常の風景の裏側に、決して見過ごしてはならない物語がひそんでいることを、改めて実感する瞬間です。 -
証言を集め、記録し、次世代に伝えていく作業は、時間や風化との闘いでもあります。しかし、そうした一つひとつの営みが、暴力や差別を許さない社会づくりへの根っことなっています。
「歴史が繰り返されることを絶対に拒否したい」
追悼式では、参加した若者や主催者から「歴史が繰り返されることを絶対に拒否したい」、「差別を許さぬ」といった力強いメッセージが発せられました。
他人事ではない、現実としての「負の歴史」を知り、その上で“今、私たちにできること”を考えようという呼びかけが、会場を包みました。
横浜や神奈川でも続く記憶の継承
荒川河川敷だけでなく、各地でも関東大震災下の朝鮮人虐殺の犠牲者を悼む取り組みが続いています。
横浜では約330人が追悼に集い、神奈川の追悼会では「事実を直視し、差別を許さぬ心を持とう」との呼びかけが広がっています。
次世代へ、そして未来へ
-
証言や記録、そして芸能や音楽も交えた追悼のあり方は、悲しみを乗り越え、記憶をつないでいくための新たな文化となりつつあります。
-
地域の子どもたち、若者、訪れる人々一人ひとりが「何があったのか」「私たちはどう生きるのか」を問い直す、きっかけとなっています。
-
歴史を語り継ぐという営みは、時に辛く重いものですが、それを引き受け、乗り越え、「同じ悲劇を二度と繰り返さない」社会をつくるために必要不可欠なものです。
日常を支えるための「記憶」
荒川河川敷はこれからも人々の生活に寄り添う場所であり続けます。しかし、その裏に刻まれた悲しい記憶を、ただ封じ込めるのではなく、あえて語り、背負い、未来に向けて手渡していくこと。その使命が地域全体の強さや優しさ、新たな誇りへとつながっていくのでしょう。
おわりに
「自分たちが遊んだ場所が、実はそんな悲しい歴史の現場であった」――その衝撃は、活動の原動力となっています。世代を超えて語られ、受け継がれるこの「記憶」が、差別や暴力を決して許さない社会を築くための礎として、多くの人の心に灯り続けることを願います。