矢野顕子「さとがえるコンサート」30年分の物語――“おくりもの”のような一夜

日本を代表するシンガーソングライター、矢野顕子さんが続けてきた「さとがえるコンサート」が、いよいよ30回目という大きな節目を迎えました。1996年に始まり、毎年秋から冬にかけて日本へ“里帰り”するように行われてきたこのツアーは、ファンにとって一年を締めくくる大切な行事として親しまれてきました。

30年という長い時間を重ねてきたこのコンサートは、決して大げさな祝祭ではなく、「いつも通り」を積み重ねてきたからこそ生まれた、特別な時間です。今年も、ステージと客席がひとつの“家族”のようになって、豊かな音楽のひとときを分かち合いました。

「さとがえるコンサート」とは――毎年必ず帰ってくる約束

「さとがえるコンサート」が始まったのは1996年11月20日、東京・府中の森芸術劇場での公演でした。1990年にアメリカへ拠点を移した矢野さんが、「アルバム発売のたびに不定期に来日するのではなく、毎年必ず日本に帰ってきて、お客さんと会える定期的なツアーを」という思いからスタートしたものです。

「さとがえる」という名前は、コピーライターの糸井重里さんによるもの。海外で活動しながらも、毎年“ふるさと”に帰ってくる――そんな温かいイメージがそのままタイトルになりました。

初期の7年間は、ベースのアンソニー・ジャクソンさん、ドラムのクリフ・アーモンドさんとのトリオを核に、年ごとにゲストミュージシャンを迎えながら続けられました。7年目には、ギタリストの佐橋佳幸さんが加わり、その後も編成やアレンジを変えながら、常に新しい顔を見せてきました。

2025年ツアーの編成――おなじみの“ゴールデン・メンバー”が集合

「さとがえるコンサート2025 featuring 小原礼・佐橋佳幸・林立夫 ~30th Anniversary~」となる今年は、ファンにはすっかりおなじみとなった強力なメンバーが再び集結しました。

  • 矢野顕子:ボーカル、ピアノ、キーボード
  • 小原礼:ベース
  • 佐橋佳幸:ギター
  • 林立夫:ドラムス

日本のポップス/ロックシーンを支えてきた名うてのプレイヤーたちが、矢野さんの音楽世界に寄り添い、支え、ときに引っ張っていく。音楽好きにはたまらない布陣で、「30周年だから特別なことをする」というよりも、「気心の知れた仲間と、いつも通り最高の音楽を作る」という姿勢が伝わってきます。

全国を巡る30回目の「里帰り」

今年の「さとがえるコンサート」は、広島、関西、関東など各地を巡るツアーとして開催されています。

  • 12月4日(木) 広島・はつかいち文化ホール ウッドワンさくらぴあ
  • 12月9日(火) 大阪・サンケイホールブリーゼ
  • 12月11日(木) 兵庫・神戸新聞 松方ホール
  • 12月14日(日) 東京・NHKホール
  • 12月17日(水) 神奈川・神奈川県立音楽堂

各会場とも、開場から開演までの時間に余裕がとられ、ゆったりとした気持ちで開演を待てるスケジュールになっています。価格帯も、ホールごとに設定は異なりますが、NHKホール公演では指定席11,000円、最後方席7,700円(ともに税込)といった形で、幅を持たせたチケットが用意されています。広島公演では全席指定9,900円など、会場ごとの条件に合わせた料金設定となっています。

「芸術の殿堂」ではなく「人間の家」へ

主な会場はいずれも音響に定評のあるホールですが、「さとがえるコンサート」が目指しているのは、“格式ばった芸術の殿堂”というよりも、人々の思い出が積み重なっていく「人間の家」のような場所だと紹介されています。

音楽を鑑賞するだけでなく、その場に集った人たちが、矢野さんの声やピアノ、バンドのグルーヴを通して、それぞれの人生の記憶や感情に触れていく。毎年通っている人にとっては、「今年も帰ってきた」と感じられる、特別な居場所のようなコンサートです。

コロナ禍を経て再開する“託児所”というやさしさ

東京・NHKホール公演では、30年前から続けてきた託児所の設置が、コロナ禍での中止期間を経て、今年あらためて再開されました。小さな子どもがいると、ライブに行きたくてもなかなか足を運べないという保護者の方は多いものです。

その中で、託児サービスを用意する取り組みは、「どんなライフステージにいても、音楽の時間をあきらめてほしくない」というメッセージのようにも感じられます。音楽家としてだけでなく、一人の大人としての矢野さんのまなざしが、コンサートの形にも反映されています。

「30年目として特別なことはしない」――だからこそ生まれる特別さ

興味深いのは、「30年目だからといって、特別なことは行いません」と、公式にあえて明言されていることです。アニバーサリーとなると、記念企画や演出を盛り込むのが一般的ですが、「さとがえるコンサート」はあくまで“いつものように”。

今年も、おなじみの曲を新しい発想でアレンジしたり、意外性のあるカバー曲を取り上げたり、ときには書き下ろしの新曲も披露されるかもしれない、と案内されています。毎年、少しずつ形を変えながら前へ進む。その継続の先に「30回目」がある、という考え方です。

矢野さんは、デビュー当時からポップスという枠にとどまらず、ジャズ、ロック、民族音楽、現代音楽などと自由に交わりながら独自の音楽を作り続けてきました。その姿勢は、「さとがえるコンサート」でも変わることなく、「今年の矢野顕子」を、そのままステージで感じることができます。

本編ラストを飾る「GREENFIELDS」にこめた感謝

今回のツアーでは、本編ラストを「GREENFIELDS」という楽曲で締めくくる構成が、大きな話題を呼んでいます。30回目の開催にたどり着けたことへの感謝をこめて、この曲が歌われていると伝えられています。

「GREENFIELDS」は、英語圏のフォーク/カントリー・スタンダードとして知られるタイトルで、日本でもさまざまなアーティストによって歌われてきた楽曲名でもあります。矢野さんがどのようなアレンジで、どのような解釈を加えているのか――その細部は実際のステージでしか味わえませんが、「緑の野原」というイメージには、“これまで歩いてきた30年の道のり”と“これから先に広がる未来”の両方を重ね見ることができます。

静かに、しかし確かな思いを乗せて歌われる本編ラストの「GREENFIELDS」は、客席にいる一人ひとりにとっても、自分自身の時間を振り返るきっかけとなるような、温かな余韻を残してくれるのでしょう。

ツアーグッズにも込められた“記念のかたち”

2025年のツアーに合わせて、「さとがえるコンサート2025」ツアーグッズの発売も決定しています。会場で実物に触れ、その場の空気と共に持ち帰るグッズは、コンサートの記憶を日常の中につなぎとめる“小さなおくりもの”のような存在です。

オフィシャル通販サイト「ROCKET-EXPRESS」でも、12月中旬ごろからの販売開始が予定されており、会場に足を運べない人にも手にするチャンスがあります。パンフレットやTシャツ、トートバッグ、ステッカーなど、どのようなアイテムが並ぶのかもファンの楽しみの一つです。

矢野顕子という音楽家――30年どころではない長い歩み

「さとがえるコンサート」が30回目を迎えたとはいえ、矢野顕子さんのキャリア全体から見れば、それはあくまで一部に過ぎません。矢野さんは、3歳からピアノを始め、高校時代にはすでにセッションミュージシャンとして活動を開始。1976年のアルバム『ジャパニーズ・ガール』でソロデビューして以来、日本のポップス史に数々の足跡を残してきました。

80年代にはYMOのワールドツアーに参加し、その卓越した演奏力と独自の歌声を世界に示しました。その一方で、ピアノ弾き語りの「出前コンサート」や、「さとがえるコンサート」のような帰国ライブなど、観客との距離が近いステージも大切にしてきました。

CM音楽の世界でも、「春咲小紅」をはじめ、多くの楽曲でお茶の間に親しまれており、映画音楽や絵本の翻訳など、その活動は幅広く広がっています。2006年にはデビュー30周年を迎え、記念ムック『えがおのつくりかた』の刊行や、豪華アーティストとのコラボレーションアルバム『はじめてのやのあきこ』など、多彩なプロジェクトも手がけてきました。

それでもなお、「さとがえるコンサート」では、飾り立てることなく、ただ「いまの自分の音楽」を、ピアノの前に座って、声をからだいっぱいに響かせながら届けていく。その自然体の姿勢が、多くの人を魅了し続けています。

“30年分の物語”を分かち合う、豊かな時間

今年の「さとがえるコンサート」は、単なる節目の記念公演ではなく、これまでの30年分の時間を、ステージと客席でゆっくりと言葉にならない形で分かち合う場となっています。初回から見続けている人、途中から通い始めた人、今年初めて足を運んだ人――それぞれにとっての「物語」が、同じ会場に重なり合います。

そこには、「あのときこの曲を聴いていた自分」や、「この会場に一緒に来ていた家族や友人」の姿が、音の余韻とともによみがえる瞬間もあるかもしれません。矢野さんの柔らかなMCや、ユーモアに満ちたトークも加わって、コンサートは“音楽の時間”と同時に、“人生をそっと振り返る時間”にもなっていきます。

本編ラストに歌われる「GREENFIELDS」は、その夜に集まったすべての人にとっての「おくりもの」のような歌です。緑の野原に立って、これまで歩いてきた道のりを眺めつつ、これから先の道を静かに思い描く――そんな心象風景を、一人ひとりの胸の中に描かせてくれるのでしょう。

30年続いてきた「さとがえるコンサート」は、今年もまた、「音楽を楽しむ時間と空間」を生み出し続けています。それは、特別なサプライズよりもずっと尊く、静かながら強い光を放つ、“続けること”の力そのものです。そして、その場に居合わせた観客にとっても、きっと忘れがたい“おくりもの”になった一夜だったに違いありません。

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