細川内閣初の中国訪問前に高まった緊張 台湾問題とG7サミットをめぐる日本外交の舞台裏

1994年、細川護熙首相による初めての中国公式訪問を前に、日本外交は台湾問題対ロシア政策という二つの難題に直面していました。日中関係の安定を図りながら、G7サミットを見据えた対ロシア政策でも慎重な舵取りが求められた時期です。

公開された外交文書などからは、日本政府が中国側の強い要請を受けつつも、日中共同声明の枠組みを守りながら台湾との実務関係維持を模索していた姿が浮かび上がります。一方で、G7の枠組みにロシアをどのように関与させるかについては、領土問題を抱える日本ならではの慎重姿勢が示されていました。

細川内閣と初訪中:なぜ台湾問題が焦点になったのか

1994年3月、細川護熙首相は就任後初めて中国を公式訪問しました。外交文書によると、この訪中に向けて中国政府は、日本側に対し台湾問題で「善処」するよう再三要請していたことが明らかになっています。

当時の中国政府は、台湾問題を国家の最重要課題の一つとして位置づけ、各国に対しても台湾との「公的」な関係を持たないよう強く求めていました。日本側は中国との関係悪化を避けるべく、首相側に対し「台湾への対応には最大限の配慮が必要」と進言していたことが文書からわかります。

こうした背景には、東アジア情勢が不安定さを増していた当時の国際環境があります。冷戦後、日本外交は新たなバランスを探る必要に迫られており、特に中国との関係は、経済、安保双方の観点から極めて重要な位置を占めていました。

中国の強い懸念:台湾の「休暇外交」と公的往来

外交文書が公開した内容によると、中国側が神経をとがらせていた直接のきっかけの一つが、当時の台湾総統・李登輝氏の動きでした。

  • 1994年2月、李登輝総統は「休暇」を名目に東南アジアを歴訪し、中国側はこれを「休暇外交」と批判しました。
  • 中国外務省の唐家※次官は、日本の国広道彦・駐中国大使との会談で、「もし李総統が母校・京都大学の同窓会出席を理由に訪日するようなことがあれば大変なことになる」と強い懸念を示しました。
  • 中国は各国に対し、台湾との経済交流は認める一方で、「公的関係」は一切認めないという立場を明確にしていました。

同時期の日中外相会談でも、中国側は日本に対し「台湾との公的往来は許されない」と重ねて伝え、日本の政務次官による台湾訪問に対しても「中国国民の感情を害する」と不快感を示していました。

こうした一連の動きは、中国が台湾問題を「国家の核心的利益」とみなし、他国の動きを非常に敏感に見ていたことを示しています。外交文書では、「台湾問題は一歩対処を誤れば日中関係の根幹を揺るがしかねないデリケートな問題」であり、「引き続き慎重な対応が必要」との外務省内の認識も記されています。

日本政府の対応:日中共同声明の順守をあらかじめ表明

こうした中国側の再三の要請を受け、日本政府内では細川首相の発言のあり方が検討されました。駐中国大使の国広道彦氏は、外相の羽田孜氏に対し公電で、次のような趣旨の意見具申を行っています。

  • 日中首脳会談で台湾問題が取り上げられることは避けられない。
  • 中国側の発言を待つのではなく、日本側から先に立場を明確に述べた方が得策である。
  • 日本としては、日中共同声明を順守しつつ、台湾との非政府間の実務関係を維持するという従来の立場をはっきり伝えるべきだ。

実際に、1994年3月20日に行われた日中首脳会談で、中国の李鵬首相は、「台湾が日本を『休暇外交』の対象とするか否かは不明だが、そのようなことが起こらないよう希望する」と述べ、日本側にくぎを刺しました。

これに対し、細川首相は次の二点を明確に表明しました。

  • 日中共同声明の順守
  • 台湾との関係については、あくまで「非政府間の実務的な関係」にとどめること

この発言により、日本としては「一つの中国」を前提とする日中共同声明の枠組みを再確認しつつ、台湾との経済・交流面での実務関係は維持するという、従来の基本線を改めて示した形になります。

「台湾をめぐり日中が神経とがらせる」94年情勢の特徴

1994年当時の日中関係を振り返ると、台湾問題をめぐり双方の神経が非常に過敏になっていたことがわかります。背景には、次のような要因がありました。

  • 台湾側が要人の海外訪問を活発化させ、事実上の「外交」を広げようとしていたこと。
  • 中国側がそれを「台湾独立」への動きと結びつけて警戒し、他国にも台湾との公的往来を控えるよう圧力を強めていたこと。
  • 日本側には、経済的には中国・台湾双方との関係を重視しつつも、政治・外交面では日中共同声明の枠組みを守る必要があったこと。

当時から、中国は台湾問題を「核心的利益の中の核心」と位置づけ、他国の対応に関しても繰り返し批判や要請を行っていました。この姿勢は、現在の中国外交にも引き継がれており、台湾をめぐる発言や動きが、今なお日中関係に大きな影響を与えています。

G7とロシア:河野洋平外相の慎重姿勢と領土問題

一方で、同じ時期の日本外交にとってもう一つの重要テーマがロシアのサミット(G7)参加問題でした。当時、G7は先進7カ国による首脳会議として運営されていましたが、ソ連崩壊後のロシアをどのように国際秩序に組み込むかが、大きな課題となっていました。

日本の河野洋平外相は、ロシアのサミット参加について慎重な姿勢を示し、その理由として北方領土問題を挙げていました。ロシアとの間で領土問題が未解決である中で、G7という主要国の枠組みにロシアを本格的に取り込むことには、国内世論への配慮も含め、慎重さが求められていたのです。

この点で、日本は他のG7諸国とやや異なる事情を抱えていました。欧米諸国にとってロシアの参加は、民主化や市場経済への移行を後押しする意味合いが強かったのに対し、日本にとっては、領土問題という二国間の懸案が大きく横たわっていました。

G7の中での日本の立場:対中・対ロ双方を意識したバランス外交

1990年代前半の日本外交は、G7の一員として国際協調を進める一方で、近隣の中国・ロシアとの難しい関係に直面していました。細川内閣期の動きを整理すると、次のような特徴が見えてきます。

  • 対中国:台湾問題で中国の強い要求に直面しつつも、日中共同声明を基礎に関係安定を図り、台湾とは非政府間の実務関係にとどめることでバランスを取った。
  • 対ロシア:G7サミット参加をめぐっては、北方領土問題を理由に慎重姿勢を崩さず、拙速な関与拡大にはブレーキをかけた。
  • G7内の役割:アジア太平洋地域に位置する唯一のG7メンバーとして、中国・ロシアをめぐる地域情勢を踏まえた視点を国際会議の場に持ち込むことが期待されていた。

つまり、日本はG7の枠内で欧米諸国との足並みをそろえつつも、独自の安全保障環境と隣国との歴史的課題を踏まえた、きめ細かな外交対応を迫られていたといえます。

公開外交文書が示すもの:今に続く課題と教訓

今回公開された外交文書は、1994年当時の日本外交が直面していた現実と、その中での判断の積み重ねを生々しく伝えています。特に次の点は、現在の東アジア情勢を考えるうえでも示唆に富んでいます。

  • 台湾問題の継続性:中国が台湾を「核心的利益」と位置づけ、各国の対応に神経をとがらせていた構図は、30年近く経った現在も大きく変わっていません。
  • 言葉の選び方の重要性:日中首脳会談で、細川首相が「日中共同声明の順守」と「非政府間の実務的関係の維持」という二本立てで表現したことは、極めて慎重に言葉を選んだ結果だといえます。
  • G7と対ロシア政策:ロシアの国際的な位置づけをめぐる議論は、その後もG8体制の形成や、さらに後のクリミア問題・ウクライナ情勢などを通じて揺れ動いてきました。その原点の一つとして、細川内閣期の議論が位置づけられます。

日本は、G7の一員として国際秩序の安定に責任を持つ一方、地理的・歴史的・安全保障的な観点から、中国やロシアとの関係でも独自の課題を抱えています。1994年の外交文書が示すのは、そうした難しい環境の中で、日本がいかにバランスを取ろうとしてきたかという記録でもあります。

当時の経験や判断の積み重ねは、現在の政策決定にも少なからず影響を与えており、台湾情勢やロシア情勢が再び国際社会の大きな懸念となっている今こそ、その教訓が改めて問い直されています。

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