ガザの現実を「手に魂を込め」見つめる――フォトジャーナリストの死と、日本で広がる問い
パレスチナ・ガザで取材を続け、若くして命を落とした女性フォトジャーナリスト、ファトマ・ハッスーナ(表記揺れとしてファティマ・ハスネ等)が遺した記録と、その人生を追ったドキュメンタリー映画『手に魂を込め、歩いてみれば』が、日本でも大きな反響を呼んでいます。ガザの現地状況を伝える集会や、イスラエル軍内部からの告発とあわせて、この映画は「いま、何が起きているのか」を私たちに静かに、しかし強く問いかけています。
ガザ出身ジャーナリストを迎える集会――「いま」を直接聞く場
日本では、衆議院第二議員会館など国会関連施設を会場に、ガザ出身のジャーナリストや現地とオンラインでつながる集会が開かれています。こうした場では、爆撃や封鎖のニュースの裏側にある、日々の暮らし、家族の喪失、仕事を続ける不安など、数字や地図だけでは見えない「生活としての戦争」が語られます。
国際メディアが物理的にガザへ入ることが極めて難しい状況のなかで、現地出身のジャーナリストや市民による映像・写真・証言は、世界がガザの現実を知るためのほとんど唯一の窓になっています。そのため、日本で開かれる集会も「報道を補う、もうひとつのニュースルーム」のような役割を担い始めています。
映画『手に魂を込め、歩いてみれば』とは何か
『手に魂を込め、歩いてみれば』は、日本の映画監督が封鎖下のガザに入れない状況のなかで、現地在住のフォトジャーナリスト、ファトマ・ハッスーナとビデオ通話を重ねながら制作されたドキュメンタリー映画です。監督は、スマートフォン越しに届く彼女の日常、仕事、家族との時間を、離れた場所から静かに記録していきます。
画面に映るのは、爆撃で崩れた建物や瓦礫だけでなく、そのすぐそばで暮らしを続けようとする人々の姿です。食料不足や停電、通信遮断に苦しみながらも、ファトマはカメラを手放さず、「いま目の前で起きていること」を残そうとし続けます。
「ガザの人々の尊厳」を撮るということ
この作品について、「ファトマが撮ったのはガザの人々の尊厳だ」という評価が語られています。彼女の写真や映像には、被害の大きさを強調するようなセンセーショナルさよりも、笑顔や沈黙、家族のまなざしなど、紛争の中でも消えない日常の一瞬が丁寧に写し取られているからです。
たとえば、子どもたちが瓦礫のそばで遊ぶ姿や、わずかな食料を分け合う家族の場面など、そこには「かわいそうな被害者」としてだけでは語り尽くせない複雑な感情と、その人なりの誇りがにじみ出ています。ファトマは、ガザの人々を「ただ守られるべき存在」ではなく、「自ら生き方を選び、声を上げる主体」として写し続けました。
一人のジャーナリストの死と、その重さ
ファトマ・ハッスーナは、20代半ばという若さで、イスラエル軍による空爆により家族とともに命を落としました。彼女は、自分が危険の只中にいるとわかっていながらも、カメラを持って街を歩き、人々の暮らしと戦争の現実を記録し続けていました。
映画の制作過程では、作品が国際映画祭への出品決定という朗報を受けた直後に、彼女の死が監督に知らされるという痛ましい経緯もあります。彼女は、もし自分が死ぬとしても「世界に響く死であってほしい」と語っていたと伝えられており、その言葉どおり、彼女の生と死は映画を通じて世界中の観客に問いを投げかける存在となりました。
数字で見る「沈黙させられる声」
国連などの集計によれば、2023年10月以降のガザでは、数万人規模の市民がイスラエル軍の攻撃により命を落としており、その中には多くのジャーナリストも含まれています。2025年時点で、ガザで殺害されたジャーナリストの数は200人を大きく超えるとされ、現代の武力紛争としては異例の犠牲の多さだと指摘されています。
ジャーナリストが標的となることは、「情報」そのものが攻撃の対象になっていることを意味します。取材する人がいなくなれば、砲撃や空爆があっても、それは記録されず、世界の目から消えてしまいます。ファトマの死は、一人の若者の死であると同時に、「見届ける眼差し」を失わせる行為として国際社会から強い懸念が示されています。
イスラエル軍内部からの告発――「世界で最も倫理的な軍隊」という自己像への揺らぎ
一方で、イスラエル軍の元・現役幹部の中から、自国軍の作戦やガザでの攻撃をめぐって内部告発を行う動きも出ています。彼らは、作戦の正当化や標的選定のあり方、民間人への被害の大きさなどについて「このままでは、イスラエル社会そのものの倫理的基盤が崩れてしまう」と訴えています。
イスラエル軍は長年、自らを「世界で最も倫理的な軍隊」と表現してきましたが、現場を知る人々からは「その言葉が現実と乖離しているのではないか」という声が強まっています。告発を行った人物たちは、社会からの批判や、時に法的な圧力に直面しながらも、「沈黙しないこと」を選び、自分たちが属してきた組織への苦い愛情と共に証言を続けています。
日本社会に投げかけられる「見る・知る・声をあげる」問い
日本で『手に魂を込め、歩いてみれば』が上映され、ガザ出身ジャーナリストを招いた集会が開かれている背景には、「遠くの戦争」を自分たちの生活とどう結びつけて考えるのか、という切実な問いがあります。スマートフォン一つあれば、SNSを通じて現地映像が流れてくる時代でも、それをどう受け止め、どう行動につなげるのかは、一人ひとりに委ねられたままです。
映画を観た観客や集会の参加者からは、「ニュースで見る数字の裏にいる“誰か”の顔が、初めて自分の中で浮かんだ」「日常の当たり前が、どれほど脆く貴重なものかを考えさせられた」といった声が聞かれます。ガザの状況を知ることは、そのまま日本の社会や政治、メディアのあり方を見直すきっかけにもなっています。
「手に魂を込め、歩いてみれば」というタイトルに込められた意味
「手に魂を込め、歩いてみれば」というタイトルは、カメラを握るファトマ自身の姿と重なり合います。彼女は、命の危険を承知でカメラを手にし、その「手」に人々への敬意や自分の信念を宿しながら、破壊された街を歩き続けました。
同時に、このタイトルは観客や読者に対する呼びかけでもあります。それぞれの「手」に自分なりの思いを込めて、一歩外に出てみる、学びに出かけてみる、誰かと対話してみる――そうした小さな行動が、遠い場所で起きているように見える出来事と、自分の人生を静かにつなぎ直していくことにつながっていきます。
私たちにできること――忘れないための小さな実践
- ガザやパレスチナ情勢を扱う信頼できる報道や解説に触れ、情報を複数の視点から確認すること。
- 『手に魂を込め、歩いてみれば』のような作品を観たり、関連するトークや集会に参加したりして、当事者の声を直接聞く機会を持つこと。
- 学校や職場、家庭のなかで、自分が感じたことを言葉にし、分かち合うこと。
- 人道支援団体や報道の自由を守る団体の活動を知り、可能な範囲で寄付やボランティアなどのかたちで支えること。
ファトマをはじめとする多くのジャーナリストたちは、「世界に知ってほしい」という思いでシャッターを切り続けました。彼らの命と引き換えに残された写真や映像をどう受け止めるかは、いまを生きる私たち一人ひとりの責任でもあります。


