ナウル共和国と鹿児島の建設会社、半世紀を超える友情と歴史資料の奇跡―大阪・関西万博の最終日の舞台裏

鹿児島とナウルをつなぐ「アリガトウ」の道

2025年10月13日、大阪・夢洲で開催された大阪・関西万博は最終日を迎えました。この日、南太平洋の小さな島国・ナウル共和国と日本の鹿児島県を結ぶ、半世紀を超える深い絆が改めて注目されました。実は、今から約50年前、鹿児島の建設会社がナウルで道路建設に携わっていたことがきっかけで、両国の間に「アリガトウ」の気持ちが芽生えていたのです。

当時、建設会社は現地で働きながら、ナウルの人々と交流を深めました。完成した道路は、今でも現地で「アリガトウロード」と呼ばれ親しまれています。そしてこのたび、万博の開会に合わせてナウルから直行便が飛び、元大統領自らがその建設会社を関西万博に招待し、温かく迎えました。これは、国際交流の歴史や、民間レベルでの信頼関係がいかに大きな力を発揮するかを物語るエピソードです。

「現存する唯一の歴史資料」が奇跡の最終日到着

万博最終日のもう一つの注目は、ナウル共和国パビリオンに到着した「現存する唯一の歴史資料」です。ナウル政府はこの日、SNSで「最終展示物の到着」を発表し、鉱石入りのガラス瓶2つ、文書1枚、名刺2枚を展示した様子を写真とともに紹介しました。

これらの展示物は、ナウル島が日本の統治下にあった時代(南洋拓殖株式会社時代)に、同社の芳賀國男氏によって日本へ持ち帰られた燐鉱石標本の一部とされています。昭和18年に日本で昭和天皇への天覧も行われたという、貴重な歴史的遺物です。その後、芳賀氏が母校である鶴岡南高校(現・山形県立致道館中学校・高等学校)に寄贈したものとされていますが、長い年月の間に存在が忘れられていたところ、近年の備品整理中にX(旧Twitter)ユーザー「持明院殿(按察使)」氏によって発見・保管されていました。

戦災を免れたこれらの資料は、「現存する唯一の歴史資料」とされており、ナウルと日本の歴史をつなぐ証として非常に貴重なものです。展示が最終日まで待たれたことについて、SNS上では「滑り込みすぎる!」「ガチのやつを最終日まで取っておくとは憎いやつ」「すっごい隠し球」などと驚きや称賛の声が多数寄せられました。

ナウル・鹿児島・万博の「縁」が生んだ国際交流のかたち

この二つの出来事を通じて、ナウル共和国と日本、特に鹿児島との関わりの深さが浮かび上がります。鹿児島の建設会社による道路建設という「縁」が、半世紀を経て、今度は元大統領自らが万博会場に鹿児島の方を迎えるという「友情」となったのです。また、植民地時代の歴史資料が、偶然の発見と地道な保存活動によって、現代に甦り、多くの人の目に触れる機会を得たことも、奇跡的と言えるでしょう。

今回の万博で、ナウルが伝えたかったのは、単なる「資源豊かな国」という側面だけではありません。歴史のうねりの中で、人と人の交流がどのように国境を越え、未来へとつながっていくのか――その物語こそが、万博という国際的な祭典の意義を体現していると言えるのではないでしょうか。

ナウル共和国の歩みと日本の関係

ナウル共和国は太平洋に浮かぶ世界で三番目に小さな島国で、燐鉱石の採掘でかつては豊かな経済基盤を持っていましたが、資源枯渇や環境問題などさまざまな課題に直面してきました。そうした中で日本とは、戦前・戦後の繋がりだけでなく、現代に至るまでさまざまな形で交流を続けています。

今回の万博での出来事は、ナウルと日本の関係が、単なる経済的・政治的なものにとどまらず、人と人との「心の交流」によって支えられてきたことを示す好例です。特に、鹿児島の建設会社とナウルの人々との「アリガトウ」の絆は、国際社会が注目すべきモデルケースと言えるでしょう。

まとめ――万博が照らす歴史と友情の行方

大阪・関西万博の最終日、ナウル共和国パビリオンに届けられた「現存する唯一の歴史資料」と、鹿児島の建設会社を歓迎した元大統領の姿は、短い期間のイベントではありましたが、国同士の長い歴史と人々の心のつながりを改めて見つめ直す機会となりました。

人はモノやお金だけでなく、想いや感謝、そして歴史を紡いでいくことで、大きな感動と未来への希望を生み出すことができる――ナウルと日本、そして鹿児島の物語は、まさにその証でした。万博という舞台で、国境を越えた友情と歴史の「縁」が、多くの人の心に残る一日となったことは間違いありません。

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