朝ドラ「ばけばけ」にみる小泉八雲とセツの人生 ~名門士族が明治の激動を生き抜いた理由~
はじめに
2025年後期のNHK朝ドラ「ばけばけ」が放送開始となり、多くの視聴者から注目を集めています。本作は、日本を愛した小説家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の妻であり、日本近代史の陰に隠れがちな小泉セツ(本名:節子)の波乱万丈な人生を描いた物語です。
本記事では、明治の文明開化にのまれた士族(旧武家)出身のセツとその家族の栄枯盛衰、史実とドラマ設定の違い、「貧しさの謎」、そして現代に蘇るその意義について、丁寧に解説します。
小泉セツと「ばけばけ」――モデルとなった人物
小泉セツ(1868~1932)は、島根県松江市の名家・小泉家の娘として生まれました。明治維新以後の目まぐるしい社会変動のなか、二度の結婚と破綻、国際結婚といった壮絶な人生経験は、現代日本の「女性の生き方」にも通じるリアルな苦悩と葛藤を感じさせます。このセツの生涯をモデルに、ドラマ「ばけばけ」では主人公・松野トキが描かれていますが、物語序盤で登場する松野家の家族設定は創作を含みます。
名門松江藩が直面した「文明開化の苦悩」
セツの父・小泉弥右衛門湊(こいずみ やえもん みなと)は、出雲松平家に仕えた旧士族で、家禄300石を持っていました。
明治維新で武家制度が廃止されると、多くの士族は職と収入を失い、社会的地位も大きく低下します。松江藩(出雲地方)の士族たちは、変化にうまく適応できず、時代に「乗り遅れていく」ことになります。
- 武士の家禄(給料や土地)制度が廃止
- 官職や軍事職の削減
- 新たな産業やビジネスへの転換が進まず、生活困窮者が増加
松江藩は特に保守的な土地柄で、産業や技術の導入も遅れたため、士族出身の人々は次第に没落していきました。セツやその周囲が味わった「経済的貧困」は、日本各地の士族家庭で同時期に広く起きていたリアルな社会現象でした。
なぜセツの家は貧しかったのか?史実とドラマの差
ドラマでは「ヒロインがいきなり貧乏に……」という衝撃的な展開が描かれますが、そこには以下のような「史実」に基づく必然性があります。
- セツは士族の娘として生まれるが、生後7日で子のなかった親戚の稲垣家の養女となる
- 稲垣家は並の家柄だが、セツを「お嬢」として大切に育てた
- 明治維新以降、稲垣家も経済的に困窮し学業も継続できず、セツは早くから家計を支えるため働いた
- 最初の結婚も困窮士族同士の家同士の縁談だったが、夫の出奔により離婚
- 小泉家も織会社の倒産など相次ぐ不運に見舞われる
セツは幼少期から養家と生家の事情で「貧しさ」と向き合わざるを得ませんでした。一方、ドラマでは松野トキの家庭を「貧しくも温かな家族」として描くことで、明るい家族愛と時代の厳しさを絶妙に描写しています。
個性的な家族たち ― 人間味あふれる登場人物
ドラマでは、モデルとなった史実の枠を広げ、「父・司之介」「母・フミ」「祖父・勘右衛門」ら家族を通じて、武家家計の誇りと苦悩、そして時代に適応しようとする奮闘が生き生きと描かれています。
現実でもセツの周囲には、養父母、兄弟姉妹、婿養子の夫といったさまざまな家族が登場し、それぞれが困難を乗り越えながら生活を紡ぎ続けました。
「ばけばけ」ヒロインのもう一つの秘密 ― 生みの親と育ての親
史実とドラマの大きな違いのひとつに、「生みの親」と「育ての親」の二重構造があります。
セツは生家である小泉家、養家である稲垣家、そして結婚後の小泉家、と人生の重要な局面ごとに家族の在り方が大きく変化しました。これはドラマでも「松野家」と後半登場するとされる「雨清水家」という形で反映されています。
ヒロインがなぜ「いきなり貧乏」に?――その背後にある歴史的・家族的な事情が、物語の「謎」として仕込まれているのです。
小泉セツの苦労と強さ ― 「学歴なき妻」の誇り
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、セツと結婚し、日本文化や怪談、風俗を世界に紹介する作品を多数発表しました。その多くは、セツや義母から聞き取った庶民の物語が元になっています。ハーンはセツについて「学歴なき妻」としばしば表現しましたが、庶民の気持ちに寄り添い、自らの力で家族を支え抜いた強さも同時に評価しています。
没落士族出身であるがゆえに、セツは身分や家柄にとらわれない価値観を持ち、国際結婚や異文化理解の橋渡し役も務めました。
名家の「没落」と再生 ― セツの家族史にみる日本近代
小泉セツの生涯は、武家社会から近代市民社会への「断絶」と「連続」をありのままに示しています。誇りと困窮、社会的地位の激変、人種・性差別、家族の離散と復縁。あたかも「ばけばけ」の世界は、幕末から明治、大正、昭和へとめまぐるしく動いた日本そのものの縮図なのです。
暮らしのなかの「和」と「異国」 ~八雲との出会いと家族
セツは20代でハーンと出会い、彼の来日後に国際結婚を果たします。当時、国際結婚は非常に珍しく、さまざまな障害がありました。二人の間には三男二女の子どもたちが生まれました。
ハーンが松江、熊本、東京と移住しながら日本文化に溶け込むことができたのも、妻セツの助けあってこそでした。ハーンはセツを絶大に信頼し、生涯を通じて「パートナー」として尊敬し続けたといわれています。
松江と現代をつなぐ新たな試み ~「やくも」ラッピング列車も話題に
2025年9月には、JR西日本の特急「やくも」が「ばけばけ」ラッピング列車として運行を開始し、ドラマ放映とともに松江市・出雲市など山陰地方では新たな観光名所として注目を集めています。
セツのふるさと・松江、そして八雲の怪談文化は今も人々の心に息づき、地域振興と観光PRの重要な柱にもなっています。
さいごに――歴史を生き抜いた人々の物語が、現代に問いかけるもの
朝ドラ「ばけばけ」を通じて浮かび上がるのは、単なる「成功譚」でも「敗者の物語」でもありません。時代の変わり目に立ち、先人が必死に道を切り拓いた「ほんとうの歴史」と名もなき人々の勇気と希望です。
小泉セツ――時代に翻弄されながらも決して誇りを失わず、文化の架け橋となった女性。その生き方は、今を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。
- 士族の家に生まれながら、養家・離婚・再婚と「家」を失い続けた
- 家計や兄妹のために身を粉にして働いた
- 異文化理解の要として、日本文化の「語り部」になった
これからも「ばけばけ」を通じて、一人ひとりの人生の価値と、日本近現代史の奥深さを多くの人に知ってほしいと思います。