徳川家康が「愚かな長男」家光を選び、徳川幕府が260年続いた理由——歴史が語る家の存続と将軍継承の真実

はじめに

徳川家康は、戦国時代を終結させて江戸幕府を開いた日本史上屈指の偉人です。その彼が自らの死後、将軍職を誰に託すかという選択は、徳川家だけでなく、当時の日本社会全体に大きな影響を与えました。とくに、三代将軍に「優秀な次男」ではなく「愚かな長男」と揶揄された徳川家光を選んだ理由が、今なお多くの歴史家や一般の人々の関心を集めています。この人事が幕府の長期安定・家の存続にどう結び付いていったのか、家光の人物像や兄弟間の葛藤も含め、史実と新しい解釈に基づいたニュース記事を丁寧にお届けします。

長子相続を貫いた家康の「家」への執念

徳川家康の思想を語るうえで欠かせないのが「家」の存続を何よりも優先するという観点です。家康自身が「人」よりも「家」を重んじたことが、三代将軍選びにも色濃く反映されていました。長子相続の原則を重視し、「優秀な次男ではなく、愚かな長男」を選んだという決断は、現代人には不可解に映るかもしれません。しかし、当時の武士社会では「家が絶えること」こそが最大のリスクとされてきました。家康は、家を守るためにあえて波風を立てず、正当な家系の継承を図る必要性を痛感していたのです。

  • 武士の本懐とは「家」――家康が築いた徳川の家風は、あくまで「家」の永続を最優先とするものでした。そのため、「個人の才能」で将軍を選ぶのではなく、家系や血統など、武家社会における最も保守的な価値観に従いました。
  • 揺れる後継者選び——世継ぎの危機感と乳母・春日局の役割——

家康の晩年、二代将軍・秀忠と正室・江のもとには家光と忠長の兄弟が生まれました。家光は物心つくころから、手先が不器用であったり、絵の才能に著しく欠けていたと伝わっています。当時、両親の愛情は圧倒的に聡明で聡い次男・忠長(国千代)に注がれていたといいます。

  • 家光の人格や能力への不安視は、実母・江や父・秀忠にとって、次男への過剰な期待につながりました。家臣団の中にも「次男こそ将軍にふさわしい」と忠長に接近する動きが現れ、家族・組織を巻き込んだ後継争いの火種は大きくなっていきました。
  • しかし、そうした状況下で家光の乳母春日局(お福)は「駿府の大御所」家康のもとへ直訴します。「正当な長子が家を継がないのは家の恥辱」との強い信念のもと、家光を次期将軍に据えることの必要性を訴えたと言われています。

家康が家光を三代将軍に決めた歴史的背景

家康は春日局の行動を受け、「嫡庶の序に従って家光が世継ぎであるべきだ」と自ら明言しました。これが、将軍継承における「長子優先」という原則を幕府創設期に確立させた大きな布石となったのです。

この決断によって、「直系長子が家を継ぐ」という形式が、二代以降の安定した政権運営につながりました。血筋や家系を重んじることで、家臣団をはじめ多くの武士たちが将軍家を「一族の象徴」として認識しやすくなり、内乱やお家騒動の芽を摘むことにも成功したのです。

家光の内面と弟へのコンプレックス

家光自身、子どもの頃から両親の愛情が忠長に注がれていたこと、そして自身の至らなさを痛感していたことから、深い劣等感を抱えて生きていました。「自身の能力の限界を痛感し、弟に対する嫉妬と祖父・家康への強い敬愛が交錯していた」と伝えられています。家光が終生、祖父家康を絶対的に敬愛しつづけた背景には、こうした心の葛藤があったのでしょう。

将軍となった家光は、政敵となりうる弟・忠長を最終的に自害へと追い込むという悲劇的な選択もしています。この決断には、政権=幕府の安定化を最優先する「家」の論理と、兄弟間の心の闇が重なっていたのかもしれません。

江戸幕府260年の礎:家康の「長子継承」方針が生んだ安定

ここまで、家光が3代将軍に選ばれた経緯とその背景をご紹介しましたが、最も注目したいのはこの家督相続による幕藩体制の安定です。家康の「家を守る」という一念が、日本史に例のないほど長きにわたる政権を築き上げたといえます。

  • 名目上、家光は「愚かな長男」と揶揄され続けましたが、家制度・御三家・御三卿の創設など政権基盤を盤石なものに推し進め、徳川の血統を後世まで維持させていきました。
  • 逆に、もし家の主役に「個人の能力」を優先していたら、幕府内の対立が固定化し、内憂外患に耐えきれなかったのではないかという歴史観もあります。
  • 「家」の継続が第一という明確なロジックが、以後260年にわたる江戸幕府の長期安定の原動力となったのです。

家光と時代を生きた人々——兄弟の確執、その最終章

家光が将軍に就任するまで、家族間の葛藤や周囲の支持を巡る駆け引きは熾烈を極めました。史料によれば家光の即位後、弟・忠長は次第に排除され、最終的には自害に追い込まれています。これは現代の倫理観から見るとやりすぎと思われるかもしれません。しかし、当時の将軍家では、家の中の火種を残すことが最大のリスクだったことも念頭に入れる必要があります。

  • 家康が提示した「長子による安定した家督相続」が、最終的に幕府内外の内乱や分裂を食い止め、戦国の混乱を徹底的に終わらせる決定打となったのです。

おわりに——家康の「カリスマ」よりも「家」を重んじた決断の真価

現代に生きる私たちが、徳川家康の「長子重視」という判断の裏に歴史的必然性があったこと、そしてそれが日本史上類を見ない支配体制の安定につながったことを、あらためて学び直すべきかもしれません。決して「個人の能力」が軽んじられた訳ではなく、家制度・血筋・組織維持という社会的背景を踏まえた「家の論理」によって、揺らぎなき政権が築かれたのです。

江戸幕府の260年という長き安定は、徳川家康の「家への執着・決断」によってもたらされた奇跡でした。そしてその決断を体現したのが三代将軍・徳川家光だったといえるのではないでしょうか。

コラム:安土城と常楽寺、歴史を歩く散歩日和

滋賀県近江八幡市にかつて存在した安土城は、織田信長が築いた幻の名城として知られています。現在はその遺構を訪ね歩く散策コースが人気で、城のふもとには信仰の場として親しまれてきた常楽寺の歴史的な水路も残っています。江戸時代の政権安定の裏には、こうした地方の城郭や寺社の存在も見逃せません。「歴史と暮らし」、過去と現在が交わる場所に、改めて訪れてみてはいかがでしょうか。

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